第七十八章「儚い微笑み」
品川区の夕暮れ時。天王洲アイルの運河に沈む夕陽が、街全体を柔らかなオレンジ色に染めていた。水面にはビルの輪郭が揺らめき、時折吹く海風がその景色をそっと揺らしている。静かな風が通り過ぎるたび、まるで時間そのものが歩みを緩めているようだった。
正樹は、品川プリンスホテルのロビーラウンジで、窓際のソファ席に腰を下ろしていた。目の前には静かに注がれた紅茶の湯気。スマートフォンの画面を何度も確認しながら、彼は黙って座っていた。彼の性格からすれば、それは珍しいほど落ち着きのない態度だった。
彼は安定を求める男だった。変化や挑戦よりも、確かなもの、揺るがないものを選び続けてきた。そしてその生き方が、時に誰かを遠ざけ、時に自分を守っていた。
「ごめん、待たせた?」
やや早口の声が背後から聞こえてきた。振り返れば、美菜がコートの袖を直しながら歩いてくる。息を少しだけ切らしているその姿に、正樹の表情がほっとしたように緩んだ。
「いや、俺も今来たところだ」
「それ、たぶん嘘だよね」
「……うん、まあ」
正樹は苦笑した。彼女の前では、言い訳や取り繕いが自然と剥がれていく。そういう不思議な空気を、美菜はいつもまとっていた。
「この景色、好きなの?」と美菜は窓の外を見ながら尋ねた。
「うん、なんていうか……揺らがない景色が好きなんだ」
「水面って、揺れてるけど?」
「そう。でも、全体としては静かだろ?変わらない景色に見える」
美菜はその言葉に、小さく笑った。
「そういうところ、正樹らしいね」
「悪い意味か?」
「ううん、安心するって意味。私、たぶん、変化が激しすぎるのが苦手だから」
正樹は紅茶をひと口飲んだ。美菜は彼の斜め向かいに腰を下ろし、同じように紅茶を注文した。
「最近、仕事どう?」
「いつも通りかな。俺、派手な結果は出せないけど、確実なことだけは積み重ねていけるって自信がある」
「それ、すごく大切なことだと思う」
「でも……」
正樹は言葉を切ったまま、黙った。
「でも?」と美菜が促す。
「でも、たまに思うんだ。人の感情って、確実じゃないだろ。特に、誰かを大切に思う気持ちって、変わったり、揺れたりするじゃないか」
「そうだね、確かに」
「だから、自分が誰かの気持ちを支えられるほど強いか、分からなくなる」
美菜は少しだけ驚いたような顔をして、それから、窓の外に視線を移した。
「私もね、最近そんなこと考えてたの」
「美菜が?」
「うん。私、人の気持ちに鈍感なところがあるの。言葉にしないと、ちゃんと受け取れない。でも、正樹はそういうことを丁寧にくれるから、たまに申し訳なくなる」
「それって……俺のこと、ちゃんと見ててくれたってことか?」
「当たり前でしょ」
その瞬間、美菜がふわりと笑った。その笑顔は、とても優しくて、どこか切なかった。まるで、今この瞬間を一枚の写真に閉じ込めたくなるような、そんな“儚さ”を伴っていた。
正樹は、その笑顔をしばらく黙って見つめた。
「その顔、時々見せるよな」
「どんな顔?」
「……寂しそうな顔」
美菜は驚いたように目を見開いた。
「そっか……やっぱりバレてたか」
「昔から?」
「うん。でも、誰にも言われたことなかった」
正樹は紅茶のカップを置き、両手をテーブルの上に重ねた。
「もし、お前が悲しくなるときが来たら、俺がちゃんと見てるよ。変化に気づくのは苦手だけど、お前のことなら分かる気がするから」
美菜の目に、ほんの少し涙が浮かんだ。
「ありがとう……そう言ってくれるだけで、救われる」
ふたりの間に、静かな時間が流れる。天王洲の運河に太陽が沈みきり、ビルの灯りが一つ、また一つと点りはじめた。
「ねぇ、正樹」
「ん?」
「私、この場所に来たの、初めてなんだ。でも、きっと忘れられない景色になる」
「俺も」
美菜はもう一度、あの儚い微笑みを浮かべた。それは、不安も迷いも含んでいるのに、どこか力強ささえ感じさせる笑みだった。
正樹は、その微笑みに対してどう言葉を返せばいいか一瞬迷ったが、やがて静かに答えた。
「その笑顔、好きだよ。強がってるのかもしれないけど、ちゃんと前を見てるってわかるから」
美菜は驚いたように彼を見つめたあと、そっと視線を落とした。
「そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってなかった」
「俺、口下手だけど……ちゃんと伝えたいことはあるんだ」
正樹は内ポケットから、小さな封筒を取り出した。飾り気のない白い封筒だが、その中には、彼が数日前に書いた手紙が収められていた。
「これ、受け取ってくれるか?」
美菜はゆっくりとそれを受け取った。
「……手紙?」
「うん。たぶん、面と向かって言うよりも、こうしたほうが自分の気持ちをちゃんと伝えられると思って」
美菜は封を開け、便箋を取り出すと、その場で読み始めた。手書きの文字は、少し不器用で、ところどころ字が潰れている。でも、それが彼の真っ直ぐさを余計に際立たせていた。
美菜へ
この前、君がふとした時に見せた微笑みが、ずっと心に残っている。
嬉しそうで、どこか寂しそうで、でも目の奥は強くて。
その笑顔を見たとき、俺はこの人をちゃんと守りたいって思った。
俺は派手なことも、特別な言葉も苦手だ。
でも、誰かのために時間をかけて、少しずつでも前に進むことはできると思ってる。
君がこれから何かに迷ったり、不安になったりした時、そばにいられたら嬉しい。
変化に強くない俺だけど、君と一緒にいるなら、その変化を楽しめる気がする。
よかったら、これからの時間を、一緒に積み重ねていきませんか。
正樹より
読み終えた美菜の頬には、ひと筋の涙が流れていた。だけど、それは悲しみではなく、心がほどけるような温かい涙だった。
「……ずるいよ」
「え?」
「こんな手紙、読んだら断れないでしょ」
美菜は笑いながら、そっと正樹の手に自分の手を重ねた。
「ありがとう、正樹。私も……一緒にいたいと思ってた。こんなに真っ直ぐに気持ちを伝えてもらえるなんて、幸せすぎて、ちょっと怖いくらい」
「怖くないよ。ゆっくりでいい。ひとつひとつ、一緒に進んでいこう」
ふたりは再び窓の外を眺めた。天王洲の運河に映るビルの光が、水面に穏やかに揺れている。
「ねぇ、またここに来ようよ。きっと、何度来てもそのたびに、新しい気持ちになれそうだから」
「……ああ、そうだな」
ふたりの間に流れる時間は、過去でも未来でもなく、“今”という確かなものに満ちていた。
——儚い微笑み。
それは、確かな愛の始まりを告げる、小さな決意の表れだった。
(第七十八章 完)