表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
77/205

第七十七章「君と歩く新しい道の始まり」

 江戸川区の昼下がり。冬の空は淡い雲に覆われ、葛西臨海公園の観覧車が遠くからも見えるほど静かな風景が広がっていた。東京湾からの風は冷たく、だけどその冷たさも、どこか心地よく感じられた。諒はその風の中、公園の広場に佇んでいた。ポケットに手を入れたまま、遠くの空を見上げながら、ぼんやりと誰かを待っていた。

「お待たせー!」

 陽気な声とともに、美和香が駆け寄ってきた。彼女の声は風の中でもしっかりと響き、諒の緊張をやわらげる。

「……いや、俺も今来たところだ」

「またそのセリフ?ほんと、毎回言うよね」

 美和香は笑いながら隣に立ち、諒の肩を軽く叩いた。ふたりはそのまま、園内の遊歩道を並んで歩き始める。

「この公園、来るの久しぶりなんだ」

「俺は初めてかも。小さい頃に来た記憶はあるけど、ほとんど忘れてる」

「じゃあ、今日は“再デビュー”だね」

 冗談めいた言葉に、諒は小さく笑った。普段はあまり感情を表に出さない彼が、自然と表情を崩すのは、美和香の前だけだった。

 ふたりはやがて、園内の静かな並木道へと入る。木々の枝には冬の陽が差し込み、落ち葉がカサカサと音を立てていた。

「ねぇ、諒くん」

「ん?」

「最近、少し変わったよね」

「……そうか?」

「うん。前はもっと、自分の感情を隠してた気がする。けど最近は……ちゃんと目を見て話してくれるようになったし、よく笑うようになった」

 諒は無言で歩きながら、少しだけ視線を落とした。

「……そう見えるなら、たぶん、お前の影響だ」

「私の?」

「お前と話してると、なんていうか、自然でいられる。無理しなくていいんだって、思えるんだ」

 美和香はその言葉を、ゆっくりと胸に落とし込むように受け止めた。そして、にっこりと笑う。

「嬉しいな、それ」

 ふたりはやがて、公園のベンチに腰掛けた。前方には東京湾が広がり、波の音が遠くに聞こえる。風が吹き抜け、美和香の髪がふわりと舞った。

「諒くんってさ、感情が表に出やすいタイプじゃないでしょ?」

「……そうかもな」

「でも、そういう諒くんだからこそ、今日言いたいことがあるって、すごく大事に思えるの」

「……え?」

 美和香は、そっと小さな紙袋を取り出した。中から出てきたのは、手作りのメッセージカード。カラフルな紙に、丸い文字でこう書かれていた。

「君と歩く新しい道の始まりに、ありがとう。」

 諒はカードを受け取ると、しばらく黙ったまま見つめていた。

「……これ、手作り?」

「うん。上手じゃないけど、気持ちはこもってるつもり」

 彼はゆっくりと息を吸い込み、静かに答えた。

「……ありがとう。俺、そういうの、もらったことなくて」

「そっか。でも、今日がその一回目ってことで」

 美和香は笑い、ふたりの間にあった少しの距離を、そっと縮めた。

「私ね、これからのこと、ちゃんと考えてるよ」

「これからのこと?」

「うん。仕事のことも、生活のことも、恋愛のことも。全部まじめに、真剣に考えてる」

 諒はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……俺も、お前となら歩いていけるって思ってる。たとえ道が凸凹でも、不安でも、一緒なら進める気がする」

 美和香の目が潤んだ。

「嬉しい……本当に、そう言ってくれると思わなかった」

「俺も、こんなふうに素直になれると思ってなかった」

 公園の風がまたひとつ、ふたりの前を通り過ぎる。




 ふたりはベンチに座ったまま、静かに空を見上げた。冬の雲の切れ間から、わずかに青空が顔をのぞかせている。どこかで子どもたちのはしゃぐ声が聞こえ、ゆるやかな午後の時間が流れていく。

「ねぇ、諒くん」

「ん?」

「私、昔はね、誰かに期待するのが怖かった」

「……どうして?」

「期待すると、裏切られるかもしれないでしょ。だから、あまり人に頼ったり、甘えたりできなかった。でも、諒くんと出会って変わったんだ」

 彼女の言葉は、まっすぐに諒の胸に届いた。彼自身も、自分の弱さを隠すことに慣れていた人間だった。感情が表に出やすいというより、出しすぎてしまって、人を遠ざけてしまうのが怖かった。

「俺も……似たようなもんだ」

「そう?」

「ああ。感情が先に出て、それで誰かを困らせたこと、いっぱいあった。だけど、お前は……俺のこと、ちゃんと見てくれた」

「見てるよ。ちゃんと、ずっとね」

 言葉にできない想いが、ふたりの間に静かに流れた。風に乗って、海の匂いがほのかに漂う。

「今日ね、本当は私の方がサプライズしようと思ってたの」

「サプライズ?」

「うん。でも、さっきの言葉でもう、十分すぎるくらい嬉しかったから、手紙だけにしておく」

 そう言って、美和香はポケットからもう一通、丁寧に折りたたまれた便箋を取り出した。

「……読んでもいい?」

「もちろん」

 諒は紙を開き、ゆっくりと目を通す。


 諒くんへ

 初めて出会ったとき、あなたは静かに、だけど真剣な目で私の話を聞いてくれました。

 何気ない会話の中に、あなたの誠実さとまっすぐさが感じられて、私はどんどん惹かれていきました。

 これからどんな未来が待っているのかはわからないけれど、私は信じています。あなたと一緒に歩いていけば、きっと後悔しない未来にたどり着けるって。

 この先も、泣く日も笑う日も、全部を分かち合いたい。

 だから、どうか――この道を、私と一緒に歩いていってください。

 美和香


 読み終えた諒は、少しだけ目を閉じて、感情を整理する時間を取った。そして、ゆっくりと顔を上げ、彼女の目をまっすぐに見つめた。

「……うん。歩こう、一緒に。お前となら、俺はどこまででも行ける気がする」

 美和香の目に、ぽろりと一粒の涙が浮かんだ。

「ありがとう……嬉しい。すごく」

 その言葉に、諒は何も言わず、彼女の手をそっと握った。温もりが指先からじんわりと広がっていく。

 周囲の喧騒が遠のいていくような錯覚の中で、ふたりの世界は確かにひとつになっていた。

 ——君と歩く新しい道の始まり。

 それは、ふたりの心が重なり、これからの人生を共にするための、一歩目だった。

(第七十七章 完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ