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第七十五章「雨に濡れた街角での再会」

 台東区、午後六時。冷たい雨がアスファルトを濡らし、上野恩賜公園の入り口は静まり返っていた。アメ横のネオンがぼんやりと滲み、駅からの人々は傘の下で足早に歩いている。みちは、浅草寺の裏通りにある小さな珈琲店の前で、両手をポケットに入れて立ち尽くしていた。上着のフードに滴る雨を気にせず、じっと空を見上げていた。

「道くん、待たせちゃった?」

 その声に振り返ると、美織が傘を差して立っていた。コートの肩に細かい水滴がつき、頬は赤く染まっている。道は一瞬言葉を探したが、自然と口元が緩んだ。

「……いや、俺も今来たところだ」

「ふふ、それ毎回言うよね」

 美織は傘を傾けて彼の頭の上に差し出した。二人の距離が近づき、傘の下に静かな空間が生まれる。

「どうしてまたここに?」

「……なんとなく、思い出したんだ。あの日のこと」

 彼の目線の先には、浅草寺の参道が続いていた。小さな灯りが並び、雨に濡れた石畳が淡く光っている。

「ここで……初めて会ったよね」

「うん、三年前。偶然、雨の日だった」

 あのとき、美織は迷子になった子どもを探していた。道は無言で手伝い、二人で小さな子どもを見つけ出した。何も語らず、ただ行動で心を通わせた一日。

「君って、話すより先に動くタイプだよね」

「お前は、話してから動くタイプだろ」

「そうかも。でも、あの時は、何も言わなくても安心できた」

 美織はゆっくりと傘を握り直す。道の肩にぽつぽつと落ちる雨粒の音が、やけに近くに聞こえた。

「私、あのあと……ずっと後悔してたの」

「何を?」

「ちゃんとありがとうって言えなかったこと。だから、こうしてまた会えてよかった」

 道は視線を落としたまま、小さく息を吐いた。

「俺も……お前が急に引っ越したと聞いて、驚いた。連絡も取れなくて、何も言えないままだった」

「うん。でも、今こうして話せてるから、それで十分だよ」

 沈黙が流れる。傘の下、二人は静かに雨音を聞き続けた。

「ねぇ、道くん」

「ん?」

「人って、再会するために離れることってあるのかな」

「……あるかもしれない。離れたから、気づくこともある」

「私たちも?」

「たぶんな」

 美織は微笑みながら、彼の袖を軽く引いた。

「また会えるって、信じてた?」

「……信じてなかった。でも、どこかで期待してた」

「私も」

 彼女の笑顔は、雨に濡れた街角の灯りよりも柔らかかった。もう一度会いたいと願った想いが、今ここに形になった。




 道は美織の視線から目を逸らすように、再び空を仰いだ。灰色の雲はまだ低く垂れ込め、雨は途切れる気配を見せなかった。けれど、その雨音さえ、彼にとっては心地よいリズムのように感じられた。

「昔は、再会なんて現実じゃないって思ってた。偶然なんて、作られた奇跡だって」

「でも今は?」

「……今は、たしかにあるって思ってる。お前とこうして、また会えたから」

 言葉を終えたとき、美織はすっと自分の傘をたたんだ。雨に濡れるのもかまわないといったように、微笑んで。

「ねえ、ちょっとだけ歩こうよ。前みたいにさ」

「濡れるぞ」

「平気。だって今日は、きっと忘れられない日になる」

 道は一瞬躊躇したが、無言で頷き、美織の隣を歩き始めた。二人は浅草寺の参道へと足を向けた。石畳に落ちる雨のしぶき、傘のない二人に冷たい雫が落ちてくる。それでも不思議と寒くなかった。

「あの日、最後に見送ったとき、私ね……背中を見ながら、名前を呼びたかった」

「どうして呼ばなかった?」

「怖かった。呼んだら何かが変わる気がして。もしかしたら、それで終わっちゃうかもしれないって思ったの」

 道はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。

「お前が呼んでくれてたら、俺は振り返ってたと思うよ」

「……うん。今ならそう言ってくれる気がしてた」

 境内の灯篭の明かりが二人の影を伸ばす。雨に濡れた髪が頬に貼りついていることにも気づかず、美織はじっと彼を見つめた。

「ねぇ、道くん。これって、また始まるってことなのかな?」

「始まるっていうか……また続きが動き出しただけじゃないか」

「続き?」

「止まってた時計が、ようやく動いた気がする。三年前から止まってたやつがな」

 美織は、胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。あの日、伝えられなかった気持ち。置き去りにしてきた過去。それらが今、確かに息を吹き返している。

「だったら……私、その時計の針を大切に動かしたい」

 道は彼女のその言葉に、ゆっくりと微笑んだ。

「俺も」

 ふと、美織が鞄から何かを取り出した。それは、一枚の写真だった。三年前、子どもを見つけたあと、通りすがりの観光客に撮ってもらった一枚の写真。笑顔のふたりがそこには写っていた。

「これ、ずっと持ってたの。今日こそ渡そうって決めてた」

 道は写真を受け取り、雨に濡れないよう手帳の中へ丁寧に挟んだ。

「ありがとう。……お前、変わってないな」

「変わったよ、きっと。大人になったし、傷つくのも少し怖くなくなった」

「俺も少しは、変われてるといいんだけどな」

「変わったよ。昔よりずっと……ちゃんと目を見て話してくれるようになった」

 雨は、ほんの少しだけ弱くなっていた。浅草寺の鐘の音が遠くで鳴る。時間は進んでいる。でも、今日だけは少し、過去と現在が重なり合っていた。

「ねぇ、道くん。もう一度、言わせて?」

「ん?」

「ありがとう。三年前も、今日も、そして……これからも」

 彼女の声に、道は微かに頷いた。そして、静かに言った。

「お前がまた現れてくれて、俺は……救われた気がする」

 二人の間にもう傘はなかった。ただ、雨の中で重なる鼓動と、再会を果たした心がそっと寄り添っていた。

 ——雨に濡れた街角での再会。

  それは、過去に止まっていた時計が再び動き出す、静かで確かな始まりだった。

(第七十五章 完)

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