第七十四章「甘い香りに誘われる心」
文京区の午後、冷たい風が東京ドームの周囲を吹き抜ける。冬の澄んだ空気の中に、ほのかに甘い香りが漂っていた。後楽園の小さなカフェから漂う焼き菓子の匂いが、歩く人々の足をふと止める。
空汰は、カフェのガラス越しに街の様子をぼんやりと眺めていた。テーブルの上には、温かいコーヒーと、小さな紙袋に入ったマドレーヌ。カップを手に取り、一口飲むと、ゆっくりと温もりが広がる。
「お待たせ」
静かな声とともに、咲が席に着いた。彼女のコートには、冬の冷たい空気がまだ残っていて、軽く息を弾ませている。
「いや、俺も今来たところだ」
「またそれ?」
咲はくすっと笑いながら、手袋を外した。
「今日は、どうしてこのお店?」
「……なんとなく、甘い香りに誘われた」
咲は少し驚いたように目を丸くした。
「空汰が、そんなこと言うなんて珍しいね」
「そうか?」
「うん。でも、わかる気がする。寒い季節って、なんだか甘いものが恋しくなるよね」
空汰は静かに頷き、テーブルの上のマドレーヌをそっと指でつまんだ。
「お前も食べるか?」
「ありがとう」
咲は小さく頷き、マドレーヌを手に取る。指先に伝わる柔らかさと、バターの香ばしい香り。ひと口かじると、口の中で優しい甘さが広がった。
「美味しいね」
「……ああ」
二人はしばらく無言で、カフェの窓の外を眺めた。冬の風に乗って、街の喧騒が遠くから届く。
「ねぇ、空汰」
「ん?」
「甘い香りって、不思議だと思わない?」
「どういう意味だ?」
「記憶とつながってる気がするの。たとえば、このマドレーヌの香りを嗅ぐと、昔食べたお菓子のことを思い出したり」
空汰は少し考えた後、静かに答えた。
「……あるかもな」
「空汰にも、そんな香りある?」
空汰はカップを置き、少しだけ視線を落とした。
「雨の日に、母さんが作ってくれたパンケーキの匂い……かな」
咲は静かに彼の横顔を見つめた。
「パンケーキ?」
「ああ。小さい頃、外で遊べなくて機嫌が悪かった俺に、母さんが『雨の日は特別な日』だって言って、パンケーキを焼いてくれた」
「いいお母さんだね」
「……そうだな」
咲は、空汰が少し遠い目をしているのに気づいた。
「その香りを嗅ぐと、今でも思い出す?」
「たぶんな」
「それなら、今度パンケーキ焼いてみる?」
空汰は驚いたように彼女を見つめた。
「お前が?」
「うん。たぶん、同じ味にはならないと思うけど」
空汰は一瞬考えた後、ふっと微笑んだ。
「……悪くないな」
咲も微笑み返し、コーヒーを一口飲んだ。
「じゃあ、決まりだね」
二人はしばらく無言で、甘い香りが漂うカフェの空気を感じていた。
「ねぇ、またここに来ようよ」
「……ああ」
——甘い香りに誘われる心。
それは、記憶と想いをそっとつなぐ、優しい時間だった。
(第七十四章 完)