第七十一章「髪に触れる風」
千代田区の冬空は、どこまでも澄んでいた。朝の光が皇居の石垣を優しく照らし、ゆっくりと時間が流れているように感じられる。風は冷たいが、どこか穏やかで、都会の喧騒とは異なる静けさがそこにはあった。
勇貴は、皇居の外堀にかかる橋の上に立ち、手すりに寄りかかりながら、眼下の水面を見つめていた。ゆっくりと風が吹き抜け、彼の髪を軽く揺らしていく。時計を確認すると、約束の時間まであと数分。落ち着かない気持ちを紛らわすように、深く息を吸い込んだ。
「お待たせ」
振り向くと、くるみが微笑みながら立っていた。コートの襟を押さえ、冷たい風を避けるように小さく肩をすくめている。
「いや、俺も今来たところだ」
「またそれ?」
くるみはくすっと笑いながら、勇貴の隣に並んだ。
「今日は、どうしてここに?」
「なんとなく、静かな場所で話したかった」
「そっか。確かに、ここは落ち着くよね」
二人はしばらく無言で、穏やかに流れる堀の水面を眺めた。時折、風が吹き抜け、くるみの長い髪が軽やかに揺れる。
「ねぇ、勇貴」
「ん?」
「髪に触れる風って、不思議な気持ちにならない?」
勇貴は少し考えた後、静かに答えた。
「どういう意味だ?」
「風って、目に見えないのに、確かに感じることができるでしょ?髪が揺れたり、肌に触れたり……それが、なんだか特別なものみたいに思えるの」
勇貴は彼女の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと頷いた。
「……確かにな。風って、誰にも見えないけど、確かにそこにある。言葉みたいなもんかもしれないな」
「言葉?」
「ああ。声に出さなくても、伝わるものがあるってこと」
くるみは驚いたように彼を見つめ、それからふっと微笑んだ。
「なんだか詩的なこと言うね」
「そうか?」
「うん。でも、わかる気がする」
彼女は髪を軽く指で梳きながら、小さく息を吐いた。
「私もね、時々思うの。誰かが何かを言わなくても、その人の気持ちが風みたいに伝わることってあるなって」
勇貴は静かに彼女を見つめた。
「それは、お前がそういうのを感じ取れる人間だからじゃないか?」
くるみは少し驚いたように目を丸くしたが、やがてふっと微笑んだ。
「そうなのかな?」
「ああ。少なくとも、俺はそう思う」
彼女はしばらく黙っていたが、やがてそっと視線を落とした。
「ねぇ、勇貴」
「ん?」
「もし、風が言葉みたいに伝わるものなら……私の気持ちも、ちゃんと伝わってるかな?」
勇貴はその言葉に少し驚いたが、すぐに静かに微笑んだ。
「……伝わってるよ」
くるみはほんの少しだけ頬を赤らめながら、ふっと息を吐いた。
「よかった」
冬の冷たい風が、二人の間を通り抜ける。だが、その風の中には、確かに何か温かいものがあった。
「ねぇ、またここに来ようよ」
「……ああ」
——髪に触れる風。
それは、目に見えない想いが確かにそこにあることを教えてくれる、小さな奇跡だった。
(第七十一章 完)