第七章「共通の趣味」
釧路の空は、薄曇りの中にかすかな青を滲ませていた。湿原に広がる静寂が、どこか懐かしさを感じさせる。
千隼は、釧路湿原を見渡しながら深く息を吸った。冷たい空気が肺に染み渡る。
「……やっぱり、ここはいいな」
釧路の広大な湿原は、いつ来ても変わらず静かで、自分を受け入れてくれるような気がする。
「千隼!」
振り向くと、睦がこちらへ向かってきていた。彼女はコートの襟を立てながら、小走りで雪を踏みしめている。
「お前、遅かったな」
「ごめんごめん、ちょっと準備に手間取っちゃって」
睦は少し息を切らしながら、千隼の隣に立った。
「寒いね……でも、景色はやっぱり最高!」
彼女は目を輝かせながら、湿原の向こうを見渡す。
「釧路の冬は寒いけど、そのぶん空気が澄んでるからな」
「うん、それがまたいいんだよね」
二人はしばらく黙って湿原を眺めた。
「ねえ、今日はちゃんとカメラ持ってきた?」
「もちろん」
千隼は肩に掛けたカメラを持ち上げる。
「睦こそ、忘れ物ないだろうな?」
「大丈夫、ちゃんと持ってるよ!」
睦もバッグからカメラを取り出す。
「こうして一緒に写真を撮るの、久しぶりだね」
「そうだな。最後に一緒に撮影したのは……」
「確か、去年の秋の紅葉のときじゃなかった?」
「ああ、そうだったかもな」
千隼と睦は、お互いに写真が趣味だった。撮るものは違っても、写真を通じて見る景色には、どこか共通するものがあった。
「今日はどんな写真を撮るつもりだ?」
「うーん……私は、この冬の静けさを切り取りたいかな」
「らしいな」
「千隼は?」
「俺は……やっぱり、湿原の広がりを撮りたい」
「そっか。やっぱり、同じ場所にいても見てるものが違うんだね」
「それが写真の面白さだからな」
睦は嬉しそうに頷いた。
「ねえ、じゃあ、お互いの視点を交換してみるのはどう?」
「視点を交換?」
「うん。私が千隼の視点で、千隼が私の視点で写真を撮ってみるの」
千隼は少し考えたあと、「面白そうだな」と頷いた。
「じゃあ、やってみるか」
二人はそれぞれのカメラを構え、撮影を始めた。
千隼は睦のように、湿原の細部や雪の結晶に目を向ける。
睦は千隼のように、広がる景色のスケールを意識しながらシャッターを切る。
「……なんか、新鮮だね」
「そうだな。いつもと違う見方ができる」
睦はカメラの画面を覗きながら、少し笑った。
「やっぱり、共通の趣味っていいね」
千隼も微笑みながら頷いた。
「写真って、ただ撮るだけじゃなくて、考え方も変えてくれるんだな」
「うん、そうだね」
二人はしばらくの間、夢中でシャッターを切った。
共通の趣味。
それは、二人を繋ぐ大切なものだった。
シャッター音だけが静かに響く釧路湿原の中で、千隼と睦はそれぞれの視点を交換しながら撮影を続けていた。
「うん、これ、結構いい感じかも」
睦はカメラの画面を覗きながら、小さく頷いた。
「どれどれ」
千隼が隣から画面を覗き込む。
「ほう……いつもと全然違う撮り方だな」
「でしょ?千隼みたいに、スケールを意識してみたんだけど、なんか難しかった」
「でも、いい写真だと思うぞ」
「本当?」
「ああ。お前が普段撮るのとは違うけど、それでも睦らしさはちゃんとある」
睦は少し照れくさそうに笑った。「そっか、それならよかった」
「お前のは?」
「俺のか」
千隼はカメラを操作し、自分が撮った写真を見せた。
「わぁ……すごく繊細」
画面には、雪の上に静かに積もった霜の結晶が映し出されていた。その細やかな輝きが、まるで小さな宝石のように見える。
「睦の視点で撮ったつもりだったけど……どうだ?」
「うん、ちゃんと私の視点になってる!……っていうか、千隼が撮ると、もっと綺麗に見えるのが悔しい」
「俺の腕がいいんだな」
「もう、自信満々すぎる!」
睦は笑いながら軽く肩を押した。
「でも、なんか楽しかったね」
「ああ、普段と違う撮り方をするのも、面白いもんだな」
「またやろうよ、こういうの」
「そうだな。また次の季節にも来るか」
「うん、絶対!」
二人はカメラをしまい、並んで湿原を歩き出した。
共通の趣味を通じて、新しい世界を見ることができた。
それは、二人にとって特別な時間だった。
(第七章 完)