第六十九章「甘く切ない思い出」
習志野市の冬空は、どこまでも澄み切っていた。谷津干潟の水面は、穏やかに揺れ、空の青さを映し出している。冷たい風が吹き抜ける中、人々の姿はまばらで、時折、干潟に舞い降りる鳥の羽ばたく音が静寂を切り裂くように響いていた。
健太は、湿った木製のベンチに腰掛け、足元の小石をつま先で転がしていた。ポケットに手を突っ込みながら、ふと遠くの水面を眺める。冬の日差しが弱々しく輝き、広がる静寂にどこか切なさを感じた。
遠くから軽やかな足音が聞こえた。彼は顔を上げることなく、その音を聞いていた。やがて、その足音が止まり、隣にそっと座る気配がした。
「待たせちゃった?」
健太はゆっくりと顔を上げた。そこには、冬のコートに包まれた悠乃の姿があった。彼女の頬は寒さで赤くなり、息を切らしている。
「いや、俺も今来たところだ」
「またそれ?」
悠乃はくすっと笑いながら、コートのポケットから手を出し、温かい缶コーヒーを差し出した。
「はい、これ。寒いでしょ?」
健太は少し驚いた顔をしたが、すぐに無言でそれを受け取った。缶の温かさが指先にじんわりと広がる。
「ありがとな」
「どういたしまして」
二人はしばらく無言で干潟を眺めていた。遠くの水鳥たちがゆっくりと羽を休めている。
「ねぇ、健太」
「ん?」
「思い出って、甘いものと苦いもの、どっちが多いと思う?」
健太は少し考えた後、静かに答えた。
「……半々ぐらいじゃないか?」
「そうなの?」
「ああ。甘い思い出だけじゃなくて、苦い思い出もあるから、どっちも心に残るんだと思う」
悠乃は驚いたように彼を見つめ、それからふっと微笑んだ。
「健太にしては、ちょっと詩的な答えだね」
「そうか?」
「うん。でも、なんとなくわかる気がする」
彼女は缶コーヒーを両手で包みながら、小さく息を吐いた。
「私ね、時々思うの。甘い思い出って、時間が経つともっと甘くなるけど、苦い思い出って、どうしても忘れられないものがあるなって」
健太は静かに彼女を見つめた。
「それは、悪いことじゃないだろ」
「そう思う?」
「ああ。苦い思い出も、大事なことを教えてくれる」
悠乃はしばらく黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。
「じゃあ、今はどっちの思い出になるのかな?」
健太は彼女の言葉に少し驚いたが、すぐに缶コーヒーの温もりを感じながら答えた。
「……甘くて、ちょっと切ないかもしれないな」
悠乃は目を丸くした後、くすっと笑った。
「そっか、じゃあ、きっといい思い出になるね」
「そうだな」
二人はしばらく無言で、谷津干潟の穏やかな水面を見つめた。風が吹くたびに、どこか遠くから冬の匂いが漂ってくる。
「ねぇ、またここに来ようよ」
「……ああ」
——甘く切ない思い出。
それは、時間が経っても心に残り続ける、大切な瞬間だった。
(第六十九章 完)