第六十七章「心に残る最後の微笑み」
印西市の朝は、穏やかな光に包まれていた。冬の冷たい空気が街を満たし、澄み切った青空が広がっている。印西温泉の前の広場には、わずかに霜が降り、朝日がそれを淡く輝かせていた。
奏翔は、コートのポケットに手を入れたまま、静かに立ち尽くしていた。息を吐くたびに白い煙のように空へと消えていく。その視線の先には、美心の姿があった。彼女は少し遅れてやってきて、軽く息を切らしながら微笑んだ。
「待たせちゃった?」
「いや、俺も今来たところだ」
「それ、絶対ウソでしょ?」
「……まぁな」
美心はくすっと笑いながら、奏翔の隣に立った。
「ねぇ、奏翔」
「ん?」
「最後に見た微笑みって、心にずっと残るものなのかな?」
奏翔は少し考えた後、静かに答えた。
「たぶんな。それがどんな意味を持っていたかによるけど……忘れられない笑顔って、あると思う」
美心はコートの袖を握りしめながら、小さく息を吐いた。
「私ね、ずっと心に残ってる微笑みがあるの」
「誰の?」
「昔、おじいちゃんが亡くなる前に見せてくれた笑顔」
奏翔は静かに彼女を見つめた。
「どんな笑顔だった?」
「とても優しくて、すべてを包み込んでくれるような……そんな微笑みだったの。あのとき、泣きそうになった私を見て、『大丈夫だよ』って言ってくれた」
美心はそっと視線を下げた。
「その言葉と、あの笑顔が、今でも私の中に残ってるの」
奏翔は彼女の言葉を噛みしめるように、しばらく黙っていた。そして、ふと視線を遠くへ向けた。
「俺にも、忘れられない微笑みがある」
美心は驚いたように顔を上げた。
「誰の?」
「昔、母さんが入院してたときに、最後に見せてくれた笑顔」
「……そうなんだ」
「病室で、『大丈夫だよ』って言いながら、笑ってた。そのとき、俺はまだ小さくて、本当に大丈夫だと思ってたんだ。でも、しばらくして、母さんはもういなくなった」
美心はそっと奏翔の手に触れた。
「辛かった?」
「……ああ。でも、不思議とあの笑顔が俺を支えてくれてる気がするんだ。だから、忘れられないんだろうな」
二人はしばらく無言で、朝日に照らされた広場を眺めていた。冬の空気は冷たかったが、どこか心の奥が温かくなった気がした。
「ねぇ、奏翔」
「ん?」
「もしも、私が最後に微笑んだら、それは忘れられない笑顔になるのかな?」
奏翔は少し驚いたが、すぐに微笑んだ。
「たぶんな。俺にとって、大事なものになりそうだ」
美心はふっと微笑んだ。
「じゃあ、私も覚えておくね。奏翔の笑顔」
「……それなら、お互いに忘れられないな」
二人はしばらく並んで歩き出した。冬の冷たい風が吹き抜ける中、彼らの心には、今ここにある温かい時間が刻まれていた。
「ねぇ、またここに来ようよ」
「……ああ」
——心に残る最後の微笑み。
それは、言葉以上に大切なものを伝える、かけがえのない瞬間だった。
(第六十七章 完)