表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/205

第六十六章「思い出の香り」

 鎌ケ谷市の午後、空には薄雲が広がり、冬の冷たい風が街を吹き抜けていた。鎌ヶ谷大仏の前には、静寂が漂い、歴史の刻まれた空気が辺りを包み込んでいる。大仏の穏やかな表情を見上げながら、恵は深く息を吸い込んだ。遠くから響く子どもたちの笑い声が、風に乗って届く。

「やっぱり、この場所って落ち着くよな」

 独り言のように呟くと、背後から軽やかな足音が近づいた。

「待たせちゃった?」

 振り向くと、咲花が小走りで駆け寄ってくるところだった。彼女の頬は寒さでほんのりと赤くなっていて、マフラーをしっかりと巻き直しながら息を整えていた。

「いや、俺も今来たところだ」

「それ、また言ってる」

 咲花はくすっと笑いながら、恵の隣に並んだ。

「ねぇ、恵」

「ん?」

「思い出の香りって、あると思う?」

 恵は少し考えた後、静かに答えた。

「あるだろうな。匂いって、記憶に残りやすいから」

「だよね。私もそう思うの」

 咲花はコートのポケットに手を入れながら、小さく息を吐いた。

「この場所に来ると、昔のことを思い出すんだよね。小さい頃、おばあちゃんに連れてきてもらったことがあるの」

「鎌ヶ谷大仏に?」

「うん。そのとき、おばあちゃんが買ってくれたお菓子の匂いが、今でも忘れられなくて」

 恵は静かに彼女を見つめた。

「どんな匂いだった?」

「ほんのり甘くて、少し香ばしい感じ。たぶん、黒糖が入ってたんじゃないかな」

 咲花は目を細めながら、遠い記憶をたどるように話した。

「今でも、その匂いを嗅ぐと、おばあちゃんと一緒にいた時間を思い出すの」

「それは、大切な思い出だな」

「うん」

 恵はポケットから手を出し、鎌ヶ谷駅の方へと視線を向けた。

「そういう思い出の香りって、誰にでもあるのかもしれないな」

「恵にも?」

「まぁな。俺の場合は、雨の匂いかもしれない」

 咲花は少し驚いたように目を丸くした。

「雨?」

「ああ。子どもの頃、雨の日に遊んだ記憶が強く残ってるんだ。泥だらけになって怒られたこともあったけど、雨上がりの匂いを嗅ぐと、不思議とあの頃のことを思い出す」

 咲花は微笑みながら、頷いた。

「なんだかいいね、そういうの」

「お前もあるだろ?」

「うん。でも、こうして誰かと話してると、また新しい思い出の香りが増えていく気がする」

 恵は彼女の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと頷いた。

「そうだな」

「ねぇ、またこの場所に来ようよ」

「……ああ」

 二人はしばらく無言で、冬の冷たい空気の中、歴史ある鎌ヶ谷大仏を見上げていた。風が吹くたびに、どこか懐かしい香りが漂っている気がした。

 ——思い出の香り。

 それは、過去の記憶と未来の約束をそっとつなぐ、優しい時間だった。

(第六十六章 完)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ