第六十六章「思い出の香り」
鎌ケ谷市の午後、空には薄雲が広がり、冬の冷たい風が街を吹き抜けていた。鎌ヶ谷大仏の前には、静寂が漂い、歴史の刻まれた空気が辺りを包み込んでいる。大仏の穏やかな表情を見上げながら、恵は深く息を吸い込んだ。遠くから響く子どもたちの笑い声が、風に乗って届く。
「やっぱり、この場所って落ち着くよな」
独り言のように呟くと、背後から軽やかな足音が近づいた。
「待たせちゃった?」
振り向くと、咲花が小走りで駆け寄ってくるところだった。彼女の頬は寒さでほんのりと赤くなっていて、マフラーをしっかりと巻き直しながら息を整えていた。
「いや、俺も今来たところだ」
「それ、また言ってる」
咲花はくすっと笑いながら、恵の隣に並んだ。
「ねぇ、恵」
「ん?」
「思い出の香りって、あると思う?」
恵は少し考えた後、静かに答えた。
「あるだろうな。匂いって、記憶に残りやすいから」
「だよね。私もそう思うの」
咲花はコートのポケットに手を入れながら、小さく息を吐いた。
「この場所に来ると、昔のことを思い出すんだよね。小さい頃、おばあちゃんに連れてきてもらったことがあるの」
「鎌ヶ谷大仏に?」
「うん。そのとき、おばあちゃんが買ってくれたお菓子の匂いが、今でも忘れられなくて」
恵は静かに彼女を見つめた。
「どんな匂いだった?」
「ほんのり甘くて、少し香ばしい感じ。たぶん、黒糖が入ってたんじゃないかな」
咲花は目を細めながら、遠い記憶をたどるように話した。
「今でも、その匂いを嗅ぐと、おばあちゃんと一緒にいた時間を思い出すの」
「それは、大切な思い出だな」
「うん」
恵はポケットから手を出し、鎌ヶ谷駅の方へと視線を向けた。
「そういう思い出の香りって、誰にでもあるのかもしれないな」
「恵にも?」
「まぁな。俺の場合は、雨の匂いかもしれない」
咲花は少し驚いたように目を丸くした。
「雨?」
「ああ。子どもの頃、雨の日に遊んだ記憶が強く残ってるんだ。泥だらけになって怒られたこともあったけど、雨上がりの匂いを嗅ぐと、不思議とあの頃のことを思い出す」
咲花は微笑みながら、頷いた。
「なんだかいいね、そういうの」
「お前もあるだろ?」
「うん。でも、こうして誰かと話してると、また新しい思い出の香りが増えていく気がする」
恵は彼女の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと頷いた。
「そうだな」
「ねぇ、またこの場所に来ようよ」
「……ああ」
二人はしばらく無言で、冬の冷たい空気の中、歴史ある鎌ヶ谷大仏を見上げていた。風が吹くたびに、どこか懐かしい香りが漂っている気がした。
——思い出の香り。
それは、過去の記憶と未来の約束をそっとつなぐ、優しい時間だった。
(第六十六章 完)