第六章「夢の欠片」
帯広の朝は、透き通るような冷たい空気に包まれていた。十勝平野に広がる雪原は、まるで果てしなく続く白いキャンバスのようだった。
佳樹は、十勝牧場の展望台に立ち、遠くの山々を眺めながら深く息を吸い込んだ。
「……やっぱり、ここはいいな」
冷たい空気が肺に染み込む。この場所に立つと、自分がどれだけ小さな存在なのかを実感する。それが、どこか心地よかった。
「お待たせ」
後ろから聞こえた声に振り向くと、恭子がスノーブーツを雪に沈めながらこちらへ向かってきていた。
「遅かったな」
「ごめんごめん、ちょっと仕事が長引いちゃって。でも、朝の十勝ってやっぱりすごいね……空が広い」
恭子は展望台の柵にもたれかかりながら、遠くの景色を見渡した。
「この景色、何度見ても飽きないよな」
「うん……なんか、全部を包み込んでくれる感じがする」
「それはちょっと詩的すぎないか?」
「ふふっ、たまにはね」
二人はしばらく言葉を交わさず、雪景色を眺めた。
「ねぇ、佳樹」
恭子がふと口を開いた。「あなた、今の自分に満足してる?」
「……急になんだよ」
「いや、ちょっと気になって」
佳樹は少し考えた後、ゆっくりと答えた。
「満足……っていうか、まだ道の途中って感じかな」
「途中?」
「ああ。やりたいことはあるし、それに向かって進んでるつもりだけど、完璧とは言えないな」
恭子は静かに頷いた。
「でも、それでいいのかもね」
「どういうことだ?」
「夢って、一気に叶うものじゃないでしょ?こうやって少しずつ、積み重ねていくものだから」
佳樹は彼女の言葉を噛みしめるように、雪を踏みしめた。
「……お前はどうなんだ?」
「私?」
「お前は、自分の今に満足してるのか?」
恭子は少しだけ考え込んだ。
「……たぶん、私も途中かな。でも、最近は自分を見つめ直す時間が増えた気がする」
「それはいいことなんじゃないか?」
「うん、そう思う」
恭子はフッと笑う。「なんか、こうやって話してると、少しだけスッキリするね」
「俺もだ」
二人はゆっくりと歩き出した。
「ねぇ、もう少しだけ、ここにいていい?」
「……ああ」
十勝の大地が、二人を優しく包み込む。
——夢の欠片。
それは、確かにこの場所に落ちていた。
十勝牧場の展望台からの眺めは、まるで世界がすべて静止したかのように穏やかだった。雪が一面に広がり、遠くの山々がかすかに朝日に照らされている。風は冷たいが、どこか心地よい。
佳樹と恭子は、雪を踏みしめながらゆっくりと歩いていた。
「こうして静かな場所にいると、いろんなことを考えちゃうね」
恭子がぼんやりと呟く。
「例えば?」
「うーん……過去のこととか、これからのこととか?」
「なるほどな」
佳樹も、最近自分の進む道について考えることが増えていた。昔は勢いだけで突き進んでいたけれど、今は少しずつ、自分の足元を確認しながら進んでいる気がする。
「私ね、昔はもっと『ちゃんとしなきゃ』って思ってたんだ」
「ほう」
「でも最近は、『ちゃんとする』よりも、『自分らしくいる』ことが大事なんじゃないかって思うようになった」
佳樹はその言葉に、少し驚いたように彼女を見た。
「お前がそういうことを言うなんてな」
「えっ、それどういう意味?」
「いや、お前って昔から、何事もきっちりこなすタイプだっただろ」
「……そうかもね。でも、だからこそ、時々自分のやりたいことが分からなくなるときがあったの」
「それで、今は?」
「少しずつだけど、自分のペースを見つけられるようになった気がする」
佳樹は静かに頷いた。
「お前らしいな」
「え?」
「考えて、迷って、でも前に進もうとする。そういうところ、お前らしい」
恭子は少し照れたように笑った。
「佳樹も、昔から変わらないね」
「そうか?」
「うん。何があっても、どこかでちゃんと前に進もうとしてるところ」
佳樹は雪の上を見つめながら、少し考えた。
「まぁ、後ろを振り返ってる暇はないからな」
「うん、それもそうだね」
二人は、また静かに歩き始めた。
「ねぇ、もう少しこのままでいよう?」
「……ああ」
夢の欠片は、確かにこの雪の中に落ちている。
十勝牧場の展望台から少し離れた場所に、二人は足を止めた。白銀の大地がどこまでも広がり、空は澄み渡っている。
「ここ、本当に静かだね」
恭子がふっと息を吐く。
「そうだな。都会の騒がしさとは別世界みたいだ」
「……たまにこういう場所に来ると、色々考えちゃう」
「例えば?」
「夢のこととか、今の自分のこととか」
佳樹は横目で彼女を見る。「お前、最近仕事が忙しいって言ってたな」
「うん。でも、忙しいからこそ、自分の目標をちゃんと見失わないようにしないとって思うんだ」
「なるほどな」
恭子は少しだけ笑った。「佳樹はどう?」
「俺か?」
佳樹は足元の雪を蹴りながら、ゆっくりと答えた。
「俺も、まだ道の途中って感じだな」
「……ふふっ」
「なんだよ」
「いや、なんか、似たようなこと考えてるんだなって」
佳樹は少しだけ肩をすくめた。「俺たちは昔からそうだっただろ」
「うん、そうだね」
恭子は遠くの景色を見つめながら、小さく微笑んだ。
「夢って、一つの形に固めるのが難しいよね」
「そうかもな」
「でも、こうして話してると、少しだけ気持ちが整理される気がする」
佳樹はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「夢っていうのは、たぶんこういう時間の中にあるんじゃないか」
「え?」
「何かを考えたり、迷ったりする時間。それが夢を形にするための欠片になるんじゃないかって思う」
恭子は驚いたように彼を見たが、やがてゆっくりと頷いた。
「……そうだね。夢の欠片、か」
風が静かに吹き、二人の間を抜けていく。
「じゃあ、もう少しだけここにいようか」
「……ああ」
二人は黙って雪原を見つめた。
夢の欠片は、確かにこの場所に落ちていた。
(第六章 完)