第五十九章「海辺の記憶」
柏市の朝は、透き通るような冷たい空気に包まれていた。柏の葉公園の静かな小道を、尚也はゆっくりと歩いていた。遠くからは、冬の風に乗って微かに波の音が聞こえるような気がした。真由子が、彼の少し後ろから足早に追いついてくる。
「待たせちゃった?」
「いや、俺も今来たところだ」
「またそれ?」
真由子はくすっと笑いながら、尚也の隣に並んだ。二人はしばらく無言のまま、柏駅周辺へと続く街並みを眺めた。
「ねぇ、尚也」
「ん?」
「海を見に行きたいって思うこと、ない?」
尚也は少し考えた後、静かに答えた。
「あるな」
「どんなとき?」
「何かを整理したいとき、かな」
真由子は驚いたように彼を見つめ、それからふっと微笑んだ。
「なんかわかる気がする。私もね、心を落ち着けたいとき、海を思い出すの」
「どんな海だ?」
「子どもの頃、家族で行った海。波の音が静かに響いて、風が心地よかったんだ」
尚也は静かに彼女を見つめた。
「それは、いい記憶だな」
「うん。でも、今はその海よりも、新しく好きな景色が増えたかも」
「どこだ?」
真由子は尚也をじっと見つめ、小さく微笑んだ。
「ここで過ごす時間も、同じくらい心地いいなって思うから」
尚也は少し驚いたが、すぐに静かに頷いた。
「なら、またここに来ればいい」
「うん、また来ようね」
二人はしばらく無言で、公園のベンチに座った。冬の冷たい風が吹き抜ける中でも、心の中には柔らかな温かさが残っていた。
——海辺の記憶。
それは、心を落ち着ける場所が、誰かと一緒ならさらに特別なものになるということだった。
(第五十九章 完)