第五十四章「初めての感情」
千葉県の冬の空は、どこまでも広く、澄んでいた。拓巳は、千葉市の幕張メッセの近くを歩きながら、時折吹き抜ける海風にコートの襟を立てた。すぐそばには、清香が小さく息を弾ませながら並んで歩いている。
「待たせちゃった?」
「いや、俺も今来たところだ」
「それ、絶対ウソでしょ?」
「……まぁな」
清香はくすっと笑いながら、前を向いた。幕張の海辺へと続く道は、観覧車の光が遠くに見え、冬の冷たい空気の中にも、どこか温かさを感じさせる景色が広がっていた。
「ねぇ、拓巳」
「ん?」
「初めての感情って、どんなときに生まれると思う?」
拓巳は少し考えた後、静かに答えた。
「たぶん、自分の予想を超えたときじゃないか?」
「予想を超えたとき?」
「ああ。今まで感じたことのない感情って、自分の想像の外からやってくる気がする」
清香は驚いたように彼を見つめ、それからふっと微笑んだ。
「それ、ちょっとわかるかも」
彼女は海の方を見ながら、小さく息を吐いた。
「私もね、最近、自分がこんなふうに思うなんてって驚くことがあるんだ」
「たとえば?」
「……大切に思う気持ちとか、そばにいたいって思う気持ちとか」
拓巳は静かに彼女を見つめた。
「それは、悪くない感情だろ」
「そう思う?」
「ああ」
清香はしばらく黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。
「なら、もう少しこの気持ちを大事にしてみようかな」
二人は並んで歩きながら、潮風の冷たさを感じた。それでも、心の中には少しずつ温かいものが広がっていく。
「ねぇ、またここに来ようよ」
「……ああ」
——初めての感情。
それは、予想を超えて訪れる、かけがえのない瞬間だった。
(第五十四章 完)