第五章「ささやかな瞬間」
小樽の街は、冬の静けさに包まれていた。運河沿いのガス灯が暖かな光を灯し、ゆっくりと流れる水面に揺らめいている。雪が舞い落ちる中、優大は小樽運河のほとりを歩いていた。
「……やっぱり、ここはいいな」
静かで落ち着いたこの場所は、昔から彼にとって特別だった。どんなに忙しくても、ここに来ると心が落ち着く。
「優大!」
遠くから呼ぶ声に振り向くと、景子がこちらに向かって歩いてきていた。
「遅かったな」
「ごめん、少し仕事が長引いちゃって」
景子はコートの襟を立てながら、軽く息を吐いた。「寒いね」
「まあな、小樽の冬だから」
「でも、この運河の景色はやっぱりいいね」
景子はそう言いながら、運河の水面を眺めた。ライトアップされた倉庫群が幻想的に映し出されている。
「観光客も少ないし、ちょうどいい時間帯だな」
「うん、落ち着いてて好き」
二人はゆっくりと運河沿いを歩き始めた。
「そういえば、久しぶりにここに来たよね」
「そうだな、前に来たのは……いつだったか」
「確か、大学生の頃じゃなかった?」
「ああ、卒業前に来たな」
景子は懐かしそうに微笑む。「あのときは、未来のこととか色々話したよね」
「そうだったかもな」
優大は、そのときのことを思い出す。あの頃は、ただがむしゃらに夢を追っていた。でも今は、少しずつ違う景色が見えてきた気がする。
「優大は、今の自分に満足してる?」
突然の問いに、優大は少し驚いた。
「……どうだろうな。計画通りには進んでるけど、完璧とは言えないな」
「でも、前には進んでるんでしょ?」
「まあな」
景子はふっと笑う。「それなら十分じゃない?」
「……そうかもな」
「うん、優大は昔からコツコツ積み上げていくタイプだし」
「お前は?」
「私?」
「お前は、自分の今に満足してるのか?」
景子は少し考え込んでから、ゆっくりと答えた。
「うーん……私はまだ成長途中って感じかな」
「そうか」
「でもね、こういう何気ない時間があると、『今の自分も悪くないな』って思えるんだ」
優大はその言葉を噛みしめるように頷いた。
「……俺もそう思うよ」
景子は優しく微笑んだ。
「そうだ、せっかくだしオルゴール堂にも行かない?」
「まだ開いてるのか?」
「うん、夜もやってるよ」
「じゃあ、行くか」
二人は歩き出した。
——ささやかな瞬間。
それは、何気ない時間の中に、確かに存在していた。
運河沿いの石畳を歩きながら、優大と景子は小樽オルゴール堂へ向かっていた。冬の冷たい空気の中、ふわりと流れるオルゴールの音色が、どこか懐かしさを感じさせる。
「こんな夜にオルゴールを聴くなんて、なんかロマンチックだね」
景子が微笑みながら言った。
「そうか?」
「うん、だって、昔はよくこういう場所で『こんな時間を過ごしてみたい』って思ってたから」
「意外だな。お前、もっと現実的なことばかり考えてるタイプだと思ってた」
「まぁね。でも、こういうささやかな時間を大切にするのも、悪くないかなって」
そう話しているうちに、オルゴール堂の入り口にたどり着いた。木製の扉を開けると、店内には柔らかな光が灯り、無数のオルゴールが並んでいる。
「相変わらずいい雰囲気だな」
「うん……この音色、心が落ち着く」
景子は店内を見渡しながら、ゆっくりと歩いていく。ガラスケースの中には、美しい細工の施されたオルゴールが並び、それぞれ異なるメロディーを奏でていた。
「優大、どれがいいと思う?」
景子は小さなガラス細工のオルゴールを手に取り、優大に見せる。
「それ、いいんじゃないか?」
「うん……でも、こっちのも可愛い」
景子は次々とオルゴールを手に取りながら、どれにしようか迷っている。
「悩むくらいなら、両方買えばいいんじゃないか?」
「そういうこと言うから、優大は計画的すぎるって言われるんだよ」
「計画的なのは悪くないだろ」
「うん、悪くない。でもね、たまには『これだ!』って直感で決めるのもいいんじゃない?」
「……なるほどな」
優大は、そう言われてふと考えた。自分は何をするにも計画を立て、慎重に選択してきた。でも、景子の言うように、時には直感に頼ることも大切なのかもしれない。
「じゃあ、お前はどれを選ぶんだ?」
「うーん……これにする!」
景子が手に取ったのは、小さな木製のオルゴールだった。
「それにした理由は?」
「なんとなく……でも、なんか落ち着く音だから」
景子はオルゴールを巻き、静かに音色を聴く。柔らかく響く旋律が、店内に静かに広がる。
「いいな、それ」
「でしょ?」
景子は満足そうに微笑み、オルゴールをレジに持っていった。
会計を済ませたあと、二人は再び外に出た。雪はゆっくりと降り続いている。
「優大」
「ん?」
「今日は、いい時間だったね」
「そうだな」
景子はオルゴールの箱を大事そうに抱えながら、優しく微笑む。
「また、こういう時間を持てたらいいね」
「……ああ、またな」
二人は静かに並んで歩き出した。
——ささやかな瞬間。
それは、何気ない日常の中に、確かに存在していた。
(第五章 完)