【chap204 岡山市】
岡山城の黒い外壁が夕陽を受けてわずかに赤く染まり始める頃、聖斗は後楽園の外縁を歩いていた。堀の向こうに見える天守と桜の並木が、春の終わりの風にゆっくりと揺れている。平日だからか人通りは少なく、時折聞こえてくる観光客の笑い声も遠くぼやけていた。
聖斗は“反応が素早く”、何事にも“柔軟な対応”ができる男だった。けれどそれ以上に、彼には“謙虚に生きる”という姿勢が染みついていた。出しゃばらず、だが後ろに引きすぎもしない。気配を消すように場に馴染みながらも、必要なときには誰よりも早く動ける。そんな彼が今日、久しぶりに会う相手がいた。
ヒカル。
彼女はかつて聖斗と一緒に仕事をしていた女性だった。仕事ぶりは完璧だったが、その性格は“無礼”で“触らぬ神に祟りなし”を地で行くような人だった。誰に対してもフラットであるがゆえに、時折その言動は周囲に波紋を広げることもあった。だが、それでもなぜか聖斗は彼女とよく一緒にいた。いや、彼女が周囲から距離を取る分、自然と彼が間を埋めていたのかもしれない。
再会の約束をしたのは、吉備津神社の前だった。待ち合わせより十分早く着いた聖斗は、参道をゆっくりと歩いていた。石段の間から小さな草が芽を出していて、その生命力に不思議と目を奪われた。
「らしいな。そうやって、すぐ細かいところに気づくとこ」
背後から聞こえたその声に、聖斗は微笑んで振り返る。
「相変わらずの登場の仕方だね」
「変わらないって、悪口?」
「褒め言葉だよ。君のことは、なかなか誰も真似できない」
ヒカルは少しだけ口元をゆがめて笑った。それは、懐かしい空気とともに、彼の中にある“流れるメロディ”を再生させた。あの頃、どんな会話の途中にも、どこかに彼女のリズムがあった。言葉はぶっきらぼうでも、芯はまっすぐ。だからこそ、聖斗は彼女を信頼できた。
ふたりは並んで歩き、神社の境内へと入っていった。木々に囲まれた空間は外界と切り離されたように静かで、鈴の音と足音だけが耳に残る。
「最近、どうしてる?」
「前と変わらず、地味にやってる。けど、いろいろあるよ」
「たとえば?」
「感情を抑えることが、上手くなった気がする」
「それって、褒められること?」
「どうだろうね。でも、そうしないと保てないときもあるから」
ヒカルは境内の端にある小さなベンチに腰掛けた。聖斗も隣に座る。間には小さな手水鉢があり、水面には春の花びらが一枚浮いていた。
「今日さ、なんで会おうと思った?」
「うん……近所のお店でね。常連のお客さん同士が笑顔で会話してるのを見て、ふと、思い出したの。君と喋ってた時間が、すごく自然だったって」
「……ああいう光景、いいよね」
「でもさ、わたしって“自然な会話”が下手だったじゃん」
「それでも、あの頃の会話は“自然”だったと思うよ」
「……そう言ってくれるなら、今日来てよかった」
夕陽が徐々に傾き、ふたりの影が長く伸びる。その長さのぶんだけ、ふたりが離れていた時間があったのかもしれない。けれど今は、その距離がそっと埋められていく。
「もう、会わないつもりだった?」
「うん、正直。でも、君のことを完全に切るには、あまりに私の記憶の中に“居すぎた”」
「そんなに?」
「……うるさい」
ふたりは小さく笑い合った。それは、何気ない日常に潜む“確かな感情”の共有だった。
「帰り、城のほう歩いてみる?」
「いいね。ちょうど見頃だよ、あの辺の桜も」
境内を出ると、空はすでに朱色を帯びていた。帰り道、ふたりは言葉少なに歩いたが、その沈黙には緊張ではなく、心地よさがあった。
ヒカルがふと立ち止まり、空を見上げる。
「……こういう時間、嫌いじゃない」
「俺も」
“感情を抑える”ばかりだった日々の中で、ふと立ち止まって誰かと空を見上げる。そんな時間が、こんなにもあたたかく、そして意味深いとは思っていなかった。
ふたりは並んで歩き出す。ゆっくり、そして確かに。
(chap204 完)