【chap203 岡山県】
岡山城の黒漆のような外壁が、夕暮れの空を背景にしっとりと浮かび上がっていた。天守閣の周りには観光客の姿もまばらで、広場に立つと風の音と木々の葉擦れがはっきりと聞こえてくる。桜の花びらがまだわずかに残っていて、時折ひとひら、ふわりと地面に落ちる。
和真は城のふもとにある石畳の歩道を、ゆっくりと歩いていた。スマホもポケットにしまったまま、ただ周囲の空気に身を任せるように歩く。足音がやけに静かに感じられるのは、心が少し穏やかになっているからかもしれない。
彼は“心の余裕を持ちながら行動する”ことを意識している男だった。周囲に流されず、自分の感情を冷静に整理する力がある。けれどその一方で、“他人との対話”をとても大切にしていた。意見をぶつけ合うことを怖れず、それによって関係性が深まると信じている。
そして今日は、紗季子と“対話”をする日だった。
彼女とは、吉備津神社の祭りで偶然再会した。そこから少しずつ、連絡を取るようになった。再会は運命だったのか、それともただの偶然だったのか。答えはまだ出ていない。けれど今日という日が、ふたりのあいだに流れる“空気”に形を与える日になる、そんな気がしていた。
後楽園の脇にある小道を歩いていると、池のほとりに紗季子の姿を見つけた。淡いグレーのコートを羽織り、髪を後ろで軽くまとめている。風に吹かれた前髪が、そっと揺れていた。
「来てくれてありがとう」
「こっちこそ、呼び出してごめんね。なんか、直接話したくて」
「ううん、こうして会えるの、嬉しい」
ふたりは自然と並んで歩き出す。庭園の奥、橋を渡った先にあるベンチに腰を下ろすと、風景は一気に静けさを増した。水面には青空が映り、少しだけ揺れている。
「……最近、よく考えるんだ」
「なにを?」
「“心の中にしまったままの秘密”って、いつまで抱えていられるんだろうなって」
和真の声は、少しだけかすれていた。紗季子は横顔を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「わたしも、そう。ずっと言えなかったことがあって……でも、今日なら話せる気がする」
「俺もだ。ずっと、“幸せが湧き上がる”ような会話をしてみたかった」
「それって、どんな会話?」
「たとえばさ、ふとした瞬間に“自分の周りの空気が温かくて落ち着く”って感じられるような話」
紗季子は微笑んだ。
「……それ、今のことじゃない?」
和真は驚いたように彼女を見た。
「わたし、今日ずっと緊張してたけど、あなたが来てくれて、こうして座ってるだけで、なんかほっとしてる。これってきっと、“言葉より空気”が大事な時間なんだと思う」
「うん。俺も、そう思う」
しばらくふたりは言葉を交わさず、ただ水面に映る雲の流れを眺めていた。穏やかで、けれどどこか切ない風景だった。何かを言おうとして、けれど言葉にならない、そんな時間。
「昔さ、俺たち、ぶつかること多かったじゃん」
「うん。わたしが“気が強くて”、あなたが“対話型”だからかな」
「でも、あれって全部無駄じゃなかったと思ってる」
「わたしも」
「そのうえで……もう一回ちゃんと、“今の自分たち”で話したい。もし、よかったら」
紗季子はまっすぐに彼の目を見た。その瞳の奥には、迷いと決意が同居していた。
「……今なら、ちゃんと“聞ける”気がする。あの頃よりもずっと」
風が吹き、ベンチの下に落ちていた桜の花びらがふわりと舞い上がった。その瞬間、ふたりのあいだに流れる空気がほんの少し色を変えた気がした。
“心の中の秘密”をひとつ、解き放てた瞬間だった。
夕陽が少し傾いてきたころ、ふたりは立ち上がった。どこに向かうでもなく、ただ同じ方向に歩き出す。言葉は少なくても、気持ちは少しずつ重なり合っていた。
ふと、和真が言った。
「今日は……ありがとう」
「こちらこそ。なんか、ほんとに“幸せが湧いてくる”ような時間だった」
「また……歩こう、こうして」
「うん」
そのとき和真は確かに思った。この穏やかな時間が、何よりの答えだったのだと。
(chap203 完)