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【chap202 松江市】

 松江城の黒塗りの石垣が、午後の斜陽に照らされて美しく浮かび上がっていた。春の宍道湖から吹く風は思ったよりも柔らかく、日差しと混ざり合って街全体に穏やかな空気を運んでくる。智樹は城の堀端を歩きながら、手帳を取り出して何かを書きつけていた。字は小さく、几帳面で、そこには朝飲んだ珈琲の味から、電車の揺れ具合までが記録されていた。

 彼は“自分のペースを守る”ことに長けた人間だった。決して急がず、周囲に流されることも少ない。自分が「良い」と思ったものを静かに選び、黙々と前に進むタイプ。そんな智樹にとって、“日々学び続けることを楽しむ”という姿勢は生きるリズムそのものであり、時にそれは、周囲から見るとどこか“変わり者”に見えることもあった。

 今日、彼は久しぶりに亜衣と会う予定だった。出会いは大学時代。数人のグループで行った松江フォーゲルパークでの鳥のショーがきっかけだった。亜衣はそのときから、“初志貫徹”を体現するような女性だった。何かを始めたらとことんやりきる。そして何よりも“穏やか”だった。だが、他人を頼ることが苦手で、何でも一人で抱え込んでしまう癖があった。

「今日、ちゃんと話せるかな」

 智樹は、フォーゲルパークの温室前に立ち止まり、小さく呟いた。たくさんの花々が咲き誇るガラス越しの空間は、まるで別世界のように静かで、時間がゆっくりと流れているようだった。春らしいピンクや黄色の花が並ぶ中に、ひときわ目立つ青い蘭の鉢が置かれていた。

「……それ、好きだったよね」

「うん。やっぱり覚えてたんだ」

 振り向くと、そこに亜衣が立っていた。アイボリーのカーディガンを羽織り、長めのスカートが風に揺れている。変わらない笑顔、だけどその奥には、少しだけ疲れたような影も見えた。

「久しぶり」

「うん、ほんとに」

「相変わらずだね、智樹くん」

「……髪、伸びた?」

「うん、ちょっとだけ。切ろうか迷ってて、でもなんとなくそのままにしてた」

 ふたりは歩きながら温室の中へと入っていった。ガラス越しに差し込む陽光が、花の輪郭を鮮やかに浮かび上がらせる。鳥たちのさえずりが小さく聞こえ、まるでふたりの距離をやさしく繋ぐようだった。

「最近、どう?」

「うーん、まあまあかな。学ぶことが多すぎて、追いつけてない感じ。新しい人との出会いも増えて、楽しいけどちょっと疲れるかな」

「……智樹くんが、そんなふうに言うなんて珍しい」

「正直なとこね。でも、こうして話せる時間があるだけで、けっこう救われてる」

 亜衣は小さく頷き、近くのベンチに腰掛けた。智樹も隣に座り、持ってきた手帳を閉じた。

「わたしもさ、“誰かに頼る”ってことが、いまだに下手なんだよね。たぶん昔から変わってない。でも……誰かと話してると、少しずつ“自分も頼っていいんだ”って思える瞬間があるの」

「……いまは、そういう瞬間?」

「そうだと思う」

 “笑顔の理由を探して”。それが、ふたりが再び向き合った今日のテーマだったのかもしれない。言い訳でも理由でもなく、ただ“気持ち”を伝えるための。

「最近、近所の人と立ち話する機会があってね。散歩してたら声かけられて、“今日は天気がいいね”って。それだけなんだけど、すごくあたたかかった」

「そういうの、大事にしたいよね」

「うん。“温かな空気が漂うひととき”って、まさにそういう時間のことを言うんだと思う」

 ふたりはしばらく、何も話さずに花の揺れる音と鳥の鳴き声に耳を澄ませていた。目の前に広がる世界は何も変わっていないのに、ふたりの間にある“空気”は確かに変わっていた。

「……また、会ってくれる?」

「もちろん」

「今度は、わたしから連絡する。ちゃんと、気持ちを言葉にする練習、してくるから」

「じゃあ、俺も“言い訳”じゃなくて、“ちゃんとした話”を持ってくるよ」

 ふたりは笑い合いながら温室を出た。外の空気は少しひんやりとしていたが、心には確かに“春”があった。

 それは、誰かと向き合うことで得られる、小さくて確かな季節のようだった。

(chap202 完)


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