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【chap201 島根県】

 夜の帳が下りかけた島根の空に、今日もまた淡い茜がにじんでいた。宍道湖の水面は静かに波打ち、街灯の光をちらちらと映している。その湖畔に面した家の縁側に、浩司は足を投げ出して座っていた。まだ温もりの残る縁側の木板に手のひらを置いてみると、どこか懐かしい気持ちが湧き上がる。目の前には、家族が用意してくれた夕食の残り――茶碗に少しの味噌汁、冷めかけた煮物。そしてテレビから聞こえるお笑い番組の笑い声。

 浩司は“情熱的”でありながら、どこか“短気”な性分だった。人一倍“他人の短所”に敏感で、そのせいで自分のことも人のことも許せず、結果として孤立してしまうこともあった。でも今夜、彼は珍しく静かだった。というより、ひとりの時間を噛みしめるように、言葉を飲み込みながら“自分が何を考えているのか”をゆっくりと見つめていた。

 背後から足音が近づく。廊下をすり足で歩いてくるその足音は、浩司にはすぐに分かった。

「テレビ、見てた?」

「うん。雫、相変わらずうるさい芸人好きだな」

「浩司は、相変わらずチャンネル変えないよね。何が流れてても、そのままにしてる」

「……面倒くさいんだよ」

 雫は浩司の隣に腰を下ろし、手にしていたマグカップを膝に置いた。中には温かいココアが入っていて、甘い香りがほんのりと漂ってくる。彼女は“他人の価値観を尊重”することを当たり前のようにしてきた人だった。気が強いわけでもなければ、特段繊細というわけでもない。ただ、“がさつ”な自分を正直に生きてきた。

「今日、来るって聞いてなかったから、ちょっとびっくりしたよ」

「……なんとなく、寄ってみたくなった」

「うん、それだけでも嬉しい」

 会話は続くようで、続かない。ふたりの間には言葉よりも、同じ場所にいる“空気”のほうが大事だった。雫がそっとテレビの音量を下げると、窓の向こうの虫の声がはっきりと聞こえてきた。

「浩司」

「ん?」

「わたしたちってさ、昔どうだったっけ? もっと喋ってた?」

「いや、喧嘩してばっかだったと思う。あんまり言葉にしないタイプだったし、お互いに」

「……そうだよね。でも、わたし今でも覚えてるんだよ。“初めての告白が残す胸の鼓動”って言葉」

 浩司は息を止めた。まさかその言葉を、今さら聞くとは思っていなかった。あの日、緊張と不器用さとで、まともに目を合わせられず、やっとの思いで絞り出した「好きだ」の一言。雫が照れくさそうに笑って「知ってた」と返したその瞬間。胸が高鳴りすぎて、鼓動の音で彼女の声が聞こえなかった。

「……あれ、黒歴史だろ」

「ううん、わたしにとっては“ちゃんと響いた言葉”だった」

「でも、結局……」

「うん、続かなかった。でも、だからダメだったわけじゃない」

 沈黙がふたたび訪れる。だけどそれは、決して重苦しいものではなかった。むしろ、その沈黙がふたりの間に“過去の時間”を優しく浮かび上がらせてくれる。

「罪悪感、ある?」

「……あるよ。あのとき、お前にぶつけた言葉。全部、いま思えば子どもすぎて……最低だったと思う」

「わたしも、ずっと謝れなかった。でも今、こうしてまた顔を見て、ちゃんと“笑いながらテレビ見れる”だけで、なんか救われた気がする」

 浩司は手元の湯呑を持ち上げ、ぐいと飲み干した。苦みの残る緑茶が喉を通っていく。それでも口の奥に残る味は、どこか甘く、やわらかかった。

「……なんか、いいな」

「なにが?」

「夕飯食べて、テレビ見て、なんとなく喋って、なんとなく笑ってさ。こういうのが“リラックスしたひととき”なんだって、今さら思ってる」

「それ、素直に言えるようになったなら、すごい進歩だと思うよ」

「成長……したってことか?」

「うん、たぶんね」

 ふたりはそのまま、背中を預けるように縁側によりかかって、空を見上げた。雲が晴れ、ぽつりぽつりと星が見え始めていた。虫の音が響く夜。静かな住宅街。どこにも急がず、何も決めず、ただ“今この時間”を感じる。

 その中に、確かにあった。

 “罪悪感”すらも包み込むような、やさしい夜の風が。

(chap201 完)


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