【chap200 鳥取市】
鳥取砂丘を見下ろす高台のベンチに、涼は腰を下ろしていた。季節は春へと移り変わり、海から吹く風がまだ少し冷たいものの、頬を撫でる空気には確かな柔らかさがあった。眼前に広がる砂の海は、太陽の光を反射してまぶしく、そしてどこまでも静かだった。
砂丘の向こうには、かすかに海が見える。波の音は遠すぎて聞こえなかったが、その存在感はしっかりと風に乗っていた。
涼は他者の意見を受け入れ、柔軟に対応することに長けた人物だった。誰かの意見に耳を傾けること、そして調和の取れた解決策を見出すことに、自分の価値を見出してきた。ただ一方で、自分自身の“未完成さ”をどこか許せるようになったのは、ごく最近のことだった。
彼は「完璧でなくても前向きに生きていける」と、少しずつ学び始めていた。
そして今、この場所で再会する約束をした一華のことを考えていた。
彼女は“自分の信念に従って行動する”芯のある女性で、けれども“身の回りを整える”ことに対して執着する、どこか几帳面なところがあった。好奇心旺盛で、いつも目を輝かせて新しい情報を追いかけていた一華の姿を、涼は今でもよく思い出す。
鳥取城跡を抜けて、この高台へ続く道は静かだった。観光客の足音も少なく、木々の隙間から鳥取市街がぼんやりと見下ろせる。ふと風が強く吹き、涼のマフラーがふわりと舞い上がった。
「……待たせた?」
その声に振り返ると、一華が立っていた。薄いグレーのコートの裾が風に揺れている。いつも通りの落ち着いた表情をしながら、けれどその瞳の奥にはほんの少しだけ、不安のようなものが混じっていた。
「いや、こっちが早すぎた」
涼はそう答え、隣の席を手で示す。一華は小さく頷いて、彼の隣に腰を下ろした。
「砂丘、……きれいだね」
「うん。何度来ても、やっぱり圧倒される」
「そういえば、初めてここに来たときも、一緒だったね」
「そうだったな。あのときは、もっと寒かった」
「それに、風も強くて。わたし、スカートめくれて、必死で押さえてた」
「……正直、笑いこらえるの大変だった」
「こらえてたの?」
「……なんとなく」
ふたりの会話に、穏やかな間があった。その沈黙は、互いを確かめるような静けさだった。
「ねえ、涼くん」
「うん?」
「わたし、思うの。“優しさ”って、ずっと曖昧なものだと思ってた。でも最近、ちょっとだけわかった気がする」
「どんなふうに?」
「“不安”にそっと溶け込むものなんじゃないかって」
その言葉に、涼は目を瞬いた。
「この前、公園で子どもたちが無邪気に遊んでてさ。その笑い声を聞いてたら、不思議と心が落ち着いて、“大丈夫かもしれない”って思えた」
「わかる。俺も、そういうのに助けられてきた」
「涼くんは、いつも“優しさに溶け込む不安”を持ってる人だよね」
「……それ、褒められてる?」
「もちろん。わたし、そういう人じゃないと、たぶんここまで一緒に来れなかった」
風がまたひとつ、ふたりの髪をなでて通りすぎた。木の葉が揺れ、枝の間から日差しがちらちらとこぼれてくる。
「この先、どうするの?」
一華が不意に問う。
「なにを?」
「わたしたち。これからも、こうして“たまに会って話すだけ”でいいのか、それとも……」
「俺は、できればもう少し、歩幅を近づけたい」
「……嬉しい。でも、わたし、急かしたくない」
「うん。ちゃんと敬意を持って、進んでいけたらと思ってる」
「……そういうの、好き」
静かに交わされた言葉たちは、風に流れず、ふたりのあいだにそっと積もっていった。
公園のすみで、子どもたちが歓声を上げながらボールを追いかけている。それを見て一華が微笑む。その横顔を見て、涼はふと思う。
“完璧じゃないままで、誰かと一緒にいられること”。それが、自分にとっての希望なのだと。
“近所の公園で、子どもたちが無邪気に遊ぶ姿を見て、ほっこりする”。
それは涼にとって、“やさしさ”の原点であり、一華との未来の小さな予感だった。
(chap200 完)