第二章「忘れられない香り」
札幌の街は、冬の冷たい空気に包まれながらも、どこか温かさを感じさせる光に満ちていた。時計台の針は午後三時を指している。カフェの窓際に座る奏音は、湯気の立つカップをゆっくりと両手で包み込みながら、外の景色をぼんやりと眺めていた。
「遅かったね、なぎさ」
扉が開き、冷たい風とともに入ってきたのは、親友のなぎさだった。
「ごめんごめん、ちょっと道が混んでて!」
彼女はマフラーを外しながら息を弾ませ、向かいの席に座る。奏音はそんななぎさを見て、小さく笑った。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
「いやー、奏音とお茶するの、久しぶりだったからさ!待たせるのも悪いし」
なぎさはカップを手に取り、湯気をくんくんと嗅いでから一口飲んだ。
「うーん、やっぱりここのミルクティーは美味しい!」
「そうだね」
奏音もカップに口をつける。口に広がる優しい紅茶の味と、ふわりと鼻をくすぐるミルクの香り。
「この香り、懐かしいね」
「うん。高校のとき、よくここで勉強したもんね」
なぎさはカップを持ったまま、どこか遠くを見つめた。
「……あの頃、私たちって何を考えてたんだろうね?」
「将来のこと、夢のこと……でも、今思うと、あのときはただ『未来が楽しみ』って思ってた気がする」
奏音の言葉に、なぎさは少し驚いたように目を瞬かせた。
「へえ、意外。奏音って、昔からちょっと考えすぎるところあったけど、そんなふうに思ってたんだ」
「うん……まあ、でも」
奏音は少し視線を落とし、カップの縁を指でなぞった。
「今は、前みたいに純粋に未来を楽しみにできるかっていうと、ちょっと分からないな」
「……奏音」
なぎさの声が少し優しくなる。
「最近、ちょっと疲れてる?」
「ううん、そういうわけじゃない。ただ……」
奏音は言葉を選ぶように少し間を置いた。
「昔は、小さなことでも喜べたのに、今はすぐに『もっと頑張らなきゃ』って思ってしまうんだよね」
なぎさはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと微笑んだ。
「奏音、それって成長したってことじゃない?」
「え?」
「だって、昔は目の前のことを楽しむことしか考えられなかった。でも今は、『もっと頑張らなきゃ』って思えるってことは、それだけ何かを大切にしてるってことでしょ?」
奏音はその言葉をかみしめるように、静かにカップを置いた。
「……そうなのかな」
「そうだよ!」
なぎさはカップを持ち上げ、にっこり笑う。「奏音は昔から、ちゃんと前に進んでる。私から見たら、すごいなって思うことばっかりだよ」
奏音はその言葉に、ふっと息をついた。自分では気づけなかったことを、なぎさはあっさりと見抜いてくれる。そういうところが、昔から変わらない彼女の良さだった。
「ありがとう、なぎさ」
「どういたしまして!」
二人は小さくカップを合わせた。その音は、どこか安心感をくれる響きだった。
外を見ると、札幌の冬の空は少しだけ晴れ間を見せていた。
奏音は窓の向こうに目をやりながら、もう一度深く息を吸い込む。紅茶の香りと、懐かしい記憶が胸の奥に広がっていく。
——忘れられない香り。
それは、昔の自分と今の自分を繋ぐ、大切なものなのかもしれない。
なぎさと過ごす時間は、まるで昔に戻ったかのように穏やかだった。カフェの暖かな空気の中で、奏音は少しずつ心がほぐれていくのを感じていた。
「そういえばさ」
なぎさがカップを置いて、ふと思い出したように言った。
「奏音、この前言ってた仕事の話、どうなったの?」
「仕事?」
「ほら、新しいプロジェクトがどうとかって言ってたじゃん。結構大変そうだったやつ」
「ああ……」
奏音は少し視線を落とした。確かに、なぎさには以前その話をしていた。でも、実際のところ、あまりうまくいっているとは言えない。
「まだ手探りって感じかな」
「そっか……でも、奏音ってすごく真面目だからさ、きっとちゃんと結果出すと思うよ」
「……そう思う?」
「うん。だって、昔からそうだったし」
なぎさの言葉には迷いがなかった。それがかえって奏音の胸を締めつける。
「私は……そんなに強くないよ」
カップの縁を指でなぞりながら、奏音はぽつりと呟いた。
「そりゃ、人間だもん。いつも強いわけないよ」
「……」
「でもさ、奏音っていつも頑張りすぎるから、たまにはちょっと手を抜いてもいいんじゃない?」
なぎさの言葉に、奏音はふっと笑った。
「なぎさは、本当に昔から変わらないね」
「まあね!」
なぎさは誇らしげに胸を張った。「それが私のいいところでしょ?」
奏音は再びカップを手に取り、紅茶の香りをゆっくりと吸い込む。この香りは、昔と変わらない。でも、それを感じる自分は、少しずつ変わっている。
——それでいいのかもしれない。
そう思うと、心が少しだけ軽くなった。
「さて、そろそろ行く?」
なぎさが立ち上がる。
「うん」
奏音もカップを置き、コートを羽織った。二人で店を出ると、冷たい風が頬をかすめる。けれど、その寒さも悪くないと思えた。
「どこか寄りたいところ、ある?」
なぎさの問いかけに、奏音は少し考えた後、ゆっくりと答えた。
「……時計台、行ってみたいな」
「いいね!久しぶりに行こう!」
二人は並んで歩き出した。雪が舞う札幌の街を、ゆっくりと進んでいく。
忘れられない香りとともに、奏音は少しずつ、自分の心の奥にある答えに近づいている気がした。
札幌の街を歩きながら、奏音となぎさは時計台へ向かっていた。冷たい風が吹くたびに、奏音はコートの襟を少しだけ上げる。白く染まった歩道を踏みしめる音が、静かな冬の街に響く。
「ねえ、奏音」
なぎさがふと口を開く。「私たち、時計台に来るのっていつぶりだろう?」
「高校の卒業前、みんなで写真を撮りに行ったとき以来かな」
「うわ、それってめっちゃ久しぶりじゃん!」
なぎさは驚いたように目を丸くする。「私たち、札幌に住んでるのに意外と行かないよね、観光地って」
「そうだね」
奏音は微笑んだ。住み慣れた街だからこそ、わざわざ訪れる機会がないのかもしれない。でも、こうして改めて向かってみると、まるで旅をしているみたいな気分になる。
「ほら、見えてきたよ!」
なぎさが指をさした先に、時計台が静かに佇んでいた。
白い雪が積もった屋根、赤い星が輝くシンプルなデザイン——昔と変わらない姿がそこにあった。
「やっぱり綺麗だね」
奏音は足を止め、じっと時計台を見上げた。
「うん、なんか落ち着く」
なぎさも同じように時計台を見つめる。
「時間って、ちゃんと進んでるのに、不思議とここは変わらない気がするね」
「そうだね」
なぎさの言葉に、奏音はふと自分自身のことを思い浮かべた。自分はちゃんと前に進めているのだろうか——そんな不安を抱えていたけれど、もしかしたら、それでもいいのかもしれない。時計台の針は、いつも変わらず時を刻んでいる。でも、それを見る人の気持ちは、少しずつ変化している。
「ねえ、奏音」
なぎさが横を見る。「せっかくだし、写真撮ろうよ!」
「え?」
「昔みたいに、二人で記念写真!この場所で撮れば、また何年後かに見返したとき、きっといい思い出になるよ!」
奏音は一瞬迷ったが、すぐに「そうだね」と微笑んだ。
なぎさがスマートフォンを取り出し、カメラを構える。「はい、チーズ!」
シャッター音が鳴り、画面に映ったのは、雪景色の中で並ぶ二人の姿。
「うん、いい感じ!」
なぎさは満足げに微笑む。「また何年後かに、同じ場所で撮れたらいいね」
「うん……きっと、そうなるね」
奏音はスマートフォンの画面を見つめながら、小さく頷いた。
変わらないものと、変わっていくもの。その両方を抱えながら、人は前に進んでいく。
時計台の鐘が、静かに鳴り響く。
その音は、忘れられない香りのように、奏音の心に深く残った。
写真を撮り終えたあと、奏音となぎさはしばらく時計台の前に立ち尽くしていた。空を見上げると、雪が静かに舞い落ちてくる。時計台の鐘の音がまだ耳に残っている気がした。
「ねえ、奏音」
なぎさがポケットに手を突っ込みながら言った。「こうしてまた来られてよかったよね」
「うん」
奏音も同じ気持ちだった。昔と変わらない景色の中で、自分たちが確かに成長していることを感じられた。
「でもさ、私たち、昔ここで何話してたんだっけ?」
なぎさはくるっと奏音の方を向いた。
「卒業前だから……確か、将来のこととか?」
「うわぁ、そんな真面目なこと話してたっけ?」
「話してたよ。『私たち、これからどんなふうに生きていくんだろうね』って」
「え、それって奏音が言ったんじゃない?」
「……そうかも」
奏音はふっと笑った。あの頃の自分は、未来に希望を抱きながらも、どこか漠然とした不安を持っていた。そして今も、完全にそれが消えたわけではない。でも、それでいいのかもしれない。
「ねえ、じゃあ、今はどう思う?」
なぎさが尋ねる。「今の奏音は、どんなふうに生きていきたい?」
奏音は少し考えた。そして、時計台の針を見つめながら、ゆっくりと口を開く。
「……自分の気持ちに正直に、生きていきたい」
「おお、かっこいい!」
「ふふっ……そうかな?」
「うん、なんか『私、頑張ります!』って感じじゃなくて、『私らしくやる』って感じがする」
奏音はその言葉を聞いて、自分の中に小さな納得を感じた。今まで、もっと頑張らなきゃ、もっと成長しなきゃと思っていた。でも、なぎさと話していると、それよりも「自分らしくいること」の大切さに気づくことができる。
「ねえ、奏音」
なぎさが少し嬉しそうな顔で言った。「また来ようね、ここに」
「うん、また来よう」
二人は並んで歩き出した。
札幌の街には相変わらず雪が降り続いている。でも、奏音の心は不思議と軽かった。
忘れられない香りのように、この場所の思い出もまた、自分の中に残り続けるのだろう。
そう思いながら、奏音は一歩ずつ、前へと歩き出した。
—— 第二章 完 ——