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【chap198 和歌山市】

 和歌山城の天守が、夕陽に照らされて朱色に染まる。その光を浴びながら、瑛太は広場のベンチに腰を下ろしていた。目を閉じると、どこか懐かしい風の匂いが鼻をかすめる。かつてここで誰かと並んで座った記憶があるようで、けれどはっきりとは思い出せない。

 彼は“全体を見て行動する”男だった。周囲の動きに目を配り、自分の意見を強くは主張せず、調和を第一に選ぶ。そうして自分を控えめにしながら、人の輪の中に自然と溶け込んでいく。だが、その在り方は時に“誰の心にも届かない”という孤独を伴うものだった。

 周囲と調和することはできても、自分の想いを表に出すことは苦手だった。

 結葉との再会は、そんな彼の静けさに、小さな波紋を広げる出来事だった。

 今日、待ち合わせをしたのは紀三井寺の参道入口。春の桜はすでに散りかけていたが、花弁の名残が地面に優しく積もり、足元を彩っていた。結葉はその石段の下に、傘をたたんで立っていた。

「遅くなってごめん」

「ううん、俺も今来たとこ」

 それはお決まりのやり取りだったが、今日だけは、ほんの少しだけ緊張が滲んでいた。

「変わらないね、瑛太くん」

「……結葉こそ」

 彼女は“ポジティブな視点”を持ち、“懐の広さ”を感じさせる女性だった。けれどその裏に、“内向的”という気質があることを、彼は知っていた。表情にはあまり出さず、静かに考えを巡らせる。多くを語らず、けれど確かに“人の痛み”を抱きしめられる人だった。

「ほんとはさ、今日来るのちょっと迷ったんだ」

「……なんで?」

「会っても、何を話したらいいか分からないなって。でも、どうしても伝えたかったの。あのときの“ありがとう”って」

「そんな……俺、なんもしてないよ」

「そう言うと思った。でもね、わたしがしんどかったとき、ただ隣にいてくれたの。わたし、あれがすごく救いだった」

 瑛太は黙って彼女の言葉を受け止めていた。言い返すことも、反論することもできなかった。なぜなら、自分でも“誰かを励ますつもり”で動いたわけではなかったから。

 ただそこにいることしか、できなかった。

 紀三井寺の境内に着いたとき、夕陽は本格的に傾き始め、寺の屋根を赤く染めていた。瑛太と結葉は並んで本堂へと向かい、手を合わせた。静かな空気の中、どこからか聞こえる読経の声が、ふたりの鼓動を包み込む。

「……わたしね、ずっと“また会いたいな”って思ってた」

「どうして?」

「分かんない。でも、きっと“突然の再会”ってやつに憧れてたのかも」

「俺も、似たようなこと考えてた」

「ほんと?」

「うん。ずっと毎日のように見てたこの街の景色が、ある日突然、新しく見えたんだ。……それが、あの日。偶然、あの交差点で結葉を見かけた日だった」

「……うそ。声かけてくれなかったじゃん」

「勇気、出なかった。逃げたよ、完全に」

 ふたりはふっと笑い合った。まるで思春期の少年少女が、不器用に心を寄せるようなやり取りだった。

「でも今こうして向き合って、話してる。それだけで、すごいことだと思う」

「俺もそう思う」

 少し歩いた先の和歌山マリーナシティでは、観覧車がゆっくりと回っていた。日が暮れたばかりの空には、まだうっすらと朱が残っていて、街全体がやさしいグラデーションに包まれていた。

 ふたりは、海辺のベンチに腰掛けた。遠くから潮の匂いが運ばれてきて、ささやくような波音が会話の間を埋めてくれた。

「……やっぱりさ、景色って変わらないのに、見る人の気持ちでまったく違って見えるね」

「うん。俺、今日それを初めて知った気がする。毎日のように見てた和歌山の景色が、まったく別物に見えた」

「それって、わたしたちが変わったってことかな」

「そうだと思う。“悔しい”くらい、景色に感情が揺れるようになった」

「悔しい?」

「うん。前は、何も感じないほうが楽だったのに。今はこうして、感情が込み上げてきて、どうしようもない」

「でも、それって生きてる証拠だよ」

 結葉はそう言って、そっと目を閉じた。その横顔が、夕暮れの光に照らされて、優しく輝いて見えた。

 “周囲と調和する”だけじゃなく、“誰かと想いを分かち合う”こと。

 それが、瑛太にとっての新しい第一歩だった。

 景色が変わったのではない。変わったのは、自分自身。そう気づいたとき、心のなかにあった曇り空が、少しだけ晴れ間を見せた。

(chap198 完)


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