【chap197 和歌山県】
その日、和歌山の空には、春の陽光がやわらかく降り注いでいた。風は控えめで、遠く紀三井寺の塔がうっすらと揺らめいて見えるほどに、空気は澄んでいた。裕大は、駅前のロータリーからまっすぐに続く道を歩きながら、どこか胸の奥に静かな高揚感を抱いていた。
「変わってないな……この街も」
久しぶりに戻ってきた和歌山。周囲と協力して物事を解決することに慣れていた裕大にとって、故郷はある種“答え合わせ”の場所だった。自分が人に与えてきたもの、そして与えられてきたものを、ゆっくりと再確認するには、ここしかなかった。
目指していたのは、かつてよく行った喫茶店の近くにある古い空き地だった。そこには、彼と美晴がまだ“お互いの名前の響きに慣れない頃”に約束を交わしたベンチが残っている。木製の肘掛けは削れ、雨風に晒された木材は年輪のような傷を深く刻んでいた。
約束の時刻より少し早く着いたが、そこにはすでに、美晴が立っていた。やはり彼女は、こういうときは“時間通り”ではなく、“時間前”に来るタイプだった。
「久しぶり」
「……本当に久しぶりだね」
言葉はシンプルだったが、その中に流れる空気はやわらかく、何より“懐かしさ”よりも“今”に近い感覚があった。二人とも、過去に縛られずに立っていた。
「元気にしてた?」
「おかげさまで、まあまあ順調。そっちは?」
「わたしも。……計画通りではないけど、まあまあ。結果はともかく、進んでる感じ」
美晴の“寛容さ”は、昔よりも増していたように思えた。裕大は、その声に少しほっとしてから、ゆっくりと問いかけた。
「……あのときの約束、覚えてる?」
「“またここで、ちゃんと笑って話せる日が来たらいいね”ってやつ?」
「そう。それ」
「……まさか本当に叶うとは思わなかった」
「俺も。……正直、ちょっと信じてなかった」
ふたりは笑いあった。記憶の中ではいつも“思い出の場所”だったベンチに、今ふたたび座っている。それだけで、もうほとんど“奇跡”のように感じられた。
「最近ね、“利益”とか“効率”とか、そういうのだけじゃ動けなくなってきたんだよね」
「美晴が?」
「うん。以前は、成果を上げるためにスケジュールびっしり組んで、全部“結果”で評価してた。でもある日、ふと“これってほんとに幸せ?”って思って……それからかな、“利益を気にせず動く時間”が欲しくなったの」
「それ、すごくよくわかる」
「裕大も?」
「うん。俺もどちらかといえば“計画重視型”だったし、無駄が嫌いだった。でも最近は、“そのときの感情”や“相手の気持ち”を優先したくなる瞬間が増えてきてる」
ふたりは沈黙の中で風の音を聞いた。高台に吹く風は少し冷たかったが、その冷たさも心地よく感じられた。
「玄関のドアを開けると、家の中が温かい空気で満ちているのを感じることって、ない?」
「ある。最近は、そういうのが一番幸せかもって思う」
「わたしも。派手じゃなくてもいい。ただ、“心が満ちてる”って思える場所があるって、すごく贅沢なことだよね」
「それって、“わくわくした気持ち”にも似てるかもな。未来を想像したときに、自然と湧いてくる感じ」
「裕大くんって、そういうの苦手だと思ってた」
「……昔の俺ならね。でも今は、たぶん変わったと思う。いや、変わりたくて来たのかもしれない、この街に」
そう言うと、美晴は静かに笑った。
「じゃあ、もう一度“約束”しようか?」
「え?」
「またここで、ちゃんと話せる日が来たら、そのときは……“今度こそ、隣にいてもいい?”って」
裕大は驚きつつも、すぐに頷いた。その言葉を、ずっと待っていた気がしていた。
風が、ふたりの頬をなでていく。夕暮れの光が、空を橙に染めはじめ、ベンチの背もたれの影が長く地面に伸びていった。
“思い出の場所”は、過去のためだけにあるんじゃない。今日を確かめて、明日へ踏み出すためにこそ、あるのだ。
ふたりの笑顔が、その証拠だった。
(chap197 完)