【chap196 奈良市】
奈良公園に雨が降っていた。観光客の姿は少なく、鹿たちが濡れた草の上で気ままに動き回っている。雨音が葉を打ち、空気の中に清らかな静けさが漂っていた。春日大社へ続く参道は、濡れた石畳がほんのりと光を帯びていて、まるでそこに続く道が幻想の世界への入口のようだった。
琉生は、傘を差しながら東大寺の方からゆっくりと歩いていた。観光地として何度も訪れた場所だったが、今日はまったく違う感覚でこの景色を見ていた。どこか、過去と現在が混ざり合うような不思議な感覚。胸の中で小さな音を立てていた感情が、雨音に紛れて徐々に大きくなっていく。
「……ここで待ち合わせるのも、久しぶりだな」
ポツリとつぶやいた声は、傘の中に留まり、自分の耳だけに届く。あの日、彼女とぶつかり合ったのも、この公園だった。自分の感情を抑えてばかりいたせいで、言いたいことを言えず、そして何も伝わらなかった。
英里は、約束の時刻ちょうどに現れた。傘の下から覗く顔は、少しも変わっていないようで、それでも以前よりも柔らかく見えた。彼女は“目標を明確にし”、それに向かってまっすぐ進む人だった。教えることが得意で、どんな人にも根気強く向き合える人だった。そして、いつだって“積極的に挑戦する”姿勢を崩さなかった。
「待った?」
「いや、俺が早かっただけ」
ふたりはそれ以上何も言わず、鹿の群れをよけながらゆっくりと歩き出す。しばらく続いた無言の時間が、どちらからともなく破られた。
「最近は、どう?」
「……前と同じ。勝ち負けばっかり考えてる。負けたくないって思うと、つい感情押し殺して動いちゃう。……たぶん、またやらかしてる」
琉生の言葉は、自嘲気味だった。それは、彼自身の“勝ち気”な性格ゆえのものだった。常に先頭に立ちたい。誰かより先に答えに辿り着きたい。だがその代償として、感情は後回しになりがちで、時には自分でもその“純粋な動機”がわからなくなるほどだった。
「でも、今日はちゃんと会いに来てくれたんでしょ?」
「うん……雨の中で会いたかった。……って言うと変かもしれないけど」
「変じゃないよ。むしろ、らしいなって思った」
「え?」
「あなた、感情を抑えるぶん、こういう“シチュエーション”で伝えたがるから」
「……ばれてたか」
「うん、ずっと」
ふたりは、春日大社の長い回廊の下に入った。雨を避けて腰を下ろせる場所があり、そこでしばらく休むことにした。屋根から滴る雨水の音が規則的に響き、心拍を整えるように感じられた。
「わたしね、教師になってから、いろんな子に会ったけど……一番印象に残ってるのは、“感情を押し殺してでも前に進もうとする子”だった」
「なんで?」
「そういう子って、誰よりも優しいんだよ。人を傷つけないように、自分を先に犠牲にしようとする。あなたも、ずっとそうだったよね」
「……俺、優しい人間なんかじゃない」
「ううん。言葉じゃなくて、“背中”で見せる優しさを、私は知ってる」
その言葉に、琉生は思わずうつむいた。押し殺していた感情が、ほんのわずかに顔を出す。言葉にはならないが、目元がかすかに潤んでいた。
「ねえ、今日、わたしがここに来た理由、わかる?」
「……ううん。わからない」
「わたしも、もう“まっすぐに進む”ってことの意味を知りたくて来たの。あなたが、かつて私の背中を押してくれたように、今度は私があなたの隣で一緒に進んでみたくなったの」
「……英里」
「もう一度、やり直したいな。今度は、ちゃんと感情をぶつけ合いながら」
外の雨は、少しずつ弱まっていた。屋根から滴る音も減り、空の隙間にわずかな光が見え始めた。
「このまま、もう少し歩かない?」
「うん」
ふたりは立ち上がり、濡れた石段をゆっくりと下っていった。木々のあいだから、青い空が顔を覗かせている。雨音が響くなかで紡がれた言葉たちは、確かにふたりの心の奥へと届いていた。
長い一日の終わり、今夜はきっと、布団にくるまって静かに眠ることができるだろう。
“雨音が響く中で紡ぐ言葉”が、ふたりの再出発をそっと後押ししていた。
(chap196 完)