【chap195 奈良県】
奈良の街は春の陽光に満ち、観光客の賑わいのなかにもどこかゆったりとした時間が流れていた。古都特有の空気が、歩く者の歩幅までも穏やかにするようで、海人も自然と背筋を伸ばして、奈良町の石畳を踏みしめていた。目指すのは、いつも行っていた喫茶店。もう何年も前から通っていた小さなカフェで、特にお気に入りの席があった。
今日は、特別な日だった。記念日。それも、出会いの記念日。
何か特別なことをするわけでもない。ただ、彼女と“いつものように”過ごせること。それがなによりの贅沢で、なによりの救いだった。海人は、“周囲と協力して問題を解決する”ことが得意だった。自分が目立つよりも、誰かの力を引き出し、支えることに生きがいを感じていた。だが同時に、“鈍感”でもあった。人の好意に気づかず、無神経な言葉で誰かを傷つけたことも数知れない。けれど彼は、それを反省し、何度でも“チームワーク”の大切さを思い知ってきた。
カフェのドアを開けると、入口近くのカウンターに立っていた店員が、ふと手を止めた。
「あっ、海人さん。お待ちしてました」
「今日、あの席、空いてます?」
「もちろんです。あちら、どうぞ」
カウンターの奥、窓際の角席。そこには、すでに彼女――ゆりかの姿があった。彼女は、ノートを広げ、ペンをくるくると指で回していた。ふとこちらに気づくと、表情をほとんど変えず、小さく手を上げる。
それだけなのに、海人は“ああ、今日もちゃんと隣にいてくれる”という安心に包まれた。
ゆりかは“スパルタ”で“しっかりした”女性だった。誰よりも厳しく、誰よりも筋が通っている。その分、自分に対しても、周囲に対しても妥協を許さず、時に冷たく見えることもあった。だが、本質は“感謝を忘れない”人間だった。その厳しさの裏には、深い愛情があった。
「遅れた?」
「3分。でも、それも計算に入れてたから平気」
「さすが、厳しいな」
「そういうとこ、まだ鈍いよね」
「……やっぱり?」
「うん。でも、だからあなたなの。そういう海人じゃなかったら、たぶん、わたし一緒にいられなかった」
会話は、どこか淡々としている。けれどその中に、ふたりだけにしか通じない“安心の温度”がある。静かで、やさしくて、だれにも邪魔されたくない空間だった。
「……覚えてる?」
「なにを?」
「このカフェで初めて会った日」
ゆりかは少し考える素振りを見せたが、すぐに小さく頷いた。
「あのとき、あなた、頼んだケーキ落としてた」
「うわ、それ言う?」
「落として、床にクリームべったりついてた」
「やめてくれ、恥ずかしすぎる」
「でも、そのあと“次は君の前で落とさないように気をつける”って、真顔で言ってきたの、いまだに忘れられない」
「……黒歴史だな」
「逆に、わたしはあれで好きになったんだけどね」
海人は一瞬、言葉を失った。今まで“好き”とか“好意”とか、そういう言葉を直接聞いたことがなかったからだ。ゆりかはいつも行動で示すタイプだった。言葉にするよりも、黙って手を差し伸べる人だった。
「……ありがとう」
「うん」
カフェのカーテン越しに、午後の陽がふたりの頬を照らしていた。ゆっくりとした時間のなかで、周囲のざわめきも、コーヒーの香りも、すべてがふたりの“記念日”を祝福しているようだった。
帰り道、商店街を抜けると、小さな花屋の前でゆりかが足を止めた。
「これ、いいな」
「ミモザ?」
「うん。“感謝”の花言葉だって」
「……じゃあ、それ買って帰ろうか。今日は記念日だから」
ゆりかは少しだけ目を見開き、そして照れくさそうに頷いた。
夕暮れの帰り道、ふたりは並んで歩いた。言葉は少なくても、足元の影がひとつに重なるたび、胸の奥にじんわりと温かさが広がった。
「……ねえ」
「ん?」
「これからも、ずっと“いつものカフェ”で、記念日を重ねていけたら、うれしい」
「うん、俺も」
“出会いの記念日”は、きっとずっと変わらない。“冷静でいられない”ような不器用な瞬間も、こうしてふたりで包み込んでいけるのなら。
そして、店員が顔を覚えていてくれて、「いつもの席、空いてますよ」と微笑んでくれるその風景こそが、ふたりの“愛の形”そのものだった。
(chap195 完)