【chap194 洲本市】
洲本温泉の露天風呂は、すでに春の気配を帯びた空の下に、うっすらと湯気を立てていた。海のそばにあるその湯処は、潮風に包まれながらも不思議と静かで、あたりの空気に揺らぎはなく、むしろどこか非現実的なほど穏やかだった。
新太は湯に肩まで浸かり、視線を空へと上げていた。まだ夕暮れには少し早く、淡い青を残した空に、一本の飛行機雲がすうっと伸びていく。風の音も、人の話し声も消えて、ただその白い軌跡だけが、空を裂いて進んでいく。
「……きれいやな」
ぽつりと漏れた声は、誰にも聞かれないと思っていたが、すぐ近くから小さな返事が返ってきた。
「ほんとに」
湯船の向こうに座っていたのは、亜里沙だった。ふたりでこうして温泉に来るのは、初めてだった。いや、それどころか、ちゃんと向き合って話をするのも、かなり久しぶりだった。
新太は、自他ともに認める“調和型”の人間だった。どこにいても空気を読み、場を穏やかに保とうとする。その分、我を出すことが少なく、流されることも多かった。だが、彼は“知識豊富”でもあった。人と違う角度から物事を見られる視点があり、その冷静な判断力に助けられた人も多かった。
けれど、それと同時に“浪費癖”があった。計画的なようでいて、衝動に弱い。その矛盾を自覚しながらも、どうしてもやめられない自分に、時折嫌気がさすことがあった。
そんな自分を、亜里沙は見抜いていた。
「ねえ、新太くん。今日は、なんで誘ってくれたの?」
「……見透かされてるな」
「そりゃ、長い付き合いだもん。わかるよ」
新太は口元だけで笑いながら、天井のように広がる空から目を外し、彼女の横顔を見た。亜里沙は、危機的状況でも冷静さを失わない人だった。内省的で、自分の中に答えを探す癖がある。だからこそ、新太が言葉を濁しても、いつも彼女には通じてしまう。
「正直に言うとさ、最近“自分ってなんなんやろ”って思うこと多くて。これまで、知識とか理屈とかでうまくやってきたつもりだったけど、どうにもならんこともあるんやなって」
「たとえば?」
「仕事でも、プライベートでも。人と向き合おうとするたびに、なんか空回る。で、結局、“どうせ俺は浪費するだけやし”って、自分を雑に扱ってしまう」
「それって、“自分を責めることで安心してる”ように聞こえる」
「……かもな」
「わたしもそうだったから、よくわかるよ」
湯気が、ふたりの間をふわりとすり抜ける。その湿った空気の中で、亜里沙が静かに続けた。
「でもね、新太くんって、ちゃんと“前向きに取り組もうとする”人だと思う。すぐ諦めるタイプなら、今日みたいに誘ったりしないよ」
「亜里沙……」
「わたしさ、“甘い囁き”って言葉、あんまり信じてないんだ。でも今日、飛行機雲を見上げてるあなたの顔を見て……そういう一言なら、信じてもいいかもって思った」
その言葉に、新太の胸の奥が不意に熱くなる。伝えたいことはたくさんあった。けれど言葉はうまくまとまらず、代わりに彼は視線を空へ戻した。
飛行機雲は、もう風にかき消され始めていた。
「……こわかったんだよ。正直。ずっと俺、誰かに“本当の自分”を見せたら嫌われるんじゃないかって、恐怖で立ちすくんでた」
「でも、今は?」
「……いまは、少しだけ、まし」
「なら、それでいいよ。少しずつ、ね」
ふたりは湯を上がり、洲本市立博物館へと足を運んだ。静かな展示室。地元の歴史を物語る品々。そこには華やかさも派手さもないが、ひとつひとつが丁寧に残されていた。
「こういうの、好きかも」
「地味やけど、ちゃんと積み重ねてきた跡があるよな」
「うん。わたしたちの関係も、ちょっと似てるかもね」
館を出て、空を見上げると、もう飛行機雲は跡形もなく消えていた。だが、それでも新太の心には、確かに“白い軌跡”が残っていた。
“恐怖で立ちすくむ”ばかりだった自分が、今日少しだけ動けた。誰かの言葉を、真正面から受け止めてみようと思えた。
それだけで、今夜は眠れる気がした。
(chap194 完)