【chap193 赤穂市】
赤穂城跡の石垣に座って、春の陽射しを背中に感じながら、大和は手帳のページを一枚一枚めくっていた。いつからか、何気ない日々の出来事や、すれ違う誰かの言葉をメモするのが習慣になっていた。そんな几帳面さは自分でもちょっと不思議だと思うけれど、「この一瞬が愛されるものになる気がして」と、誰に語るでもなく心の中でつぶやく。
周囲からは「愛される存在だよね」と言われることが多かった。社交的で、場の空気を読むのも得意。けれど実際は、人との距離感を測るのが苦手で、自分の感情を冷静にコントロールしなければ崩れてしまいそうな日々を、綱渡りのように生きていた。
今日は、莉菜と会う日だった。赤穂温泉の前で待ち合わせをしていて、時間まではまだ少しある。久しぶりに彼女とちゃんと話すことができる――そう思うと、不思議と緊張はなかった。むしろ、心のどこかが落ち着いていた。
莉菜は、大和とは対照的に“対話を大切にする人”だった。考えすぎて悲観的になってしまうこともあったが、だからこそ誰かの心に寄り添おうとする姿勢があった。彼女の言葉は、いつも静かで、けれど芯が強かった。あの頃、何度も彼女の言葉に救われたことを思い出す。
「あ、大和くん」
声に顔を上げると、莉菜が手を振りながら近づいてきた。ゆっくりと、けれど確かな足取りで。白いブラウスにスプリングコートを羽織ったその姿は、春の景色の中にすっと溶け込んでいた。
「久しぶり。元気だった?」
「うん、まぁ、それなりに」
「それなり、か。……大和くんらしい」
ふたりは自然に並んで歩き出す。行き先を決めるわけでもなく、ただ目の前の道を進む。その歩調は、まるで以前と変わっていないように感じた。
「最近ね、ちょっと考えることがあって」
「なにを?」
「……“強さ”ってなんだろうって」
大和は歩きながら、莉菜の横顔をそっと見た。その目は、いつもより少しだけ曇って見えた。
「わたし、自分のこと、弱いなって思うことが多くて。何かあるたびに後悔したり、相手の顔色をうかがったり……でも、それでもいいのかなって、最近思うようになってきて」
「うん、いいと思うよ」
「……どうして?」
「弱さを隠さずに見せられる人って、すごく“強い”と思うから。俺、莉菜のそういうところ、ずっといいなって思ってたよ」
その言葉に、莉菜は立ち止まり、小さく笑った。
「……ねぇ、大和くん」
「うん?」
「この間ね、職場で失敗して落ち込んでたとき、同僚が“お疲れ様”って言ってくれてさ。それだけで、すごく救われたの」
「それ、わかるな……“大切な人が『お疲れ様』って言ってくれる”だけで、心があたたかくなる瞬間、あるよな」
「うん。今日も、そうだった」
「え?」
「こうして話してるだけで、“穏やかな気持ち”になれる。……大和くんが変わらずそこにいてくれるのが、嬉しい」
しばらくふたりは言葉を交わさず、ただ同じ空気を吸いながら並んで歩いた。赤穂温泉の入り口に差しかかると、湯の香りがふんわりと漂ってくる。かすかに混ざった硫黄と、木の香り。その香りさえも、どこか懐かしい。
「入ってく? 温泉」
「いいの?」
「もちろん。ゆっくりしてこうよ」
ふたりは湯に浸かりながら、何も言葉を交わさない時間を共有した。心と心が、無理なく近づいていくこの感覚。まるで何年もかけてようやく辿り着いた場所のようだった。
湯上がりに、ロビーでアイスを食べながら、大和がぽつりと言った。
「俺ね、今も不安になることある。誰かに“嫌われたかも”って思っただけで、眠れなくなったり。でも、そんなとき、莉菜の言葉を思い出すんだ。“大丈夫だよ”って言ってくれた声」
「……わたしも同じ。大和くんが“そんなこと気にすんな”って言ってくれた日、ずっと覚えてる」
ふたりは、そっと笑い合った。
“親友との恋”という言葉が、今なら少しだけ現実味を帯びて聞こえた。過去のすれ違いや、互いの弱さを抱えたまま、でも一緒にいる時間が確かに“穏やかな気持ち”を運んでくる。
それだけで、充分だった。
そしてまた明日も、ふたりはこの場所に戻ってくるのかもしれない。言葉にならない気持ちを、そっと心の奥で育てながら。
(chap193 完)