【chap192 加古川市】
加古川温泉の湯けむりが、春の乾いた空気にゆっくりと溶け込んでいく。平日の午後、館内は観光客もまばらで、どこか肩の力が抜けるような静けさに包まれていた。広々としたロビーの隅に置かれたソファに腰掛け、光平は紙コップの水をすすっていた。心身の疲れを癒すために来たはずの場所だったが、頭の奥では考えが止まらなかった。
「……なんか最近、空回りばっかりやな」
誰に向けるでもなく、そんな言葉が口をついて出た。光平は賢い選択をするタイプだった。物事の大局を重視し、目先の感情に流されることは少なかった。しかし同時に、自意識過剰な一面もあり、誰かにどう見られているか、無意識に過剰反応してしまうことがあった。
そんな自分に、少しだけ嫌気がさしていた。
手元のスマホに表示されていたメッセージは、結菜香子からのものだった。「久しぶりに話さない?」とだけ記された短い文面。返事をしたあとも、ずっと胸の奥に重い石のような違和感が残っていた。彼女と話すのは、正直、少し怖かった。
温泉の待合室の扉が開き、そこに立っていたのは、まぎれもなく結菜香子だった。くっきりとした目鼻立ちと、引き締まった姿勢。彼女は常に“自分の目標に向かって着実に努力する”ことをモットーにしている人だった。そして何より、感情を素直に表現することをためらわない。
「あ、いた。遅れてごめん」
「ううん、俺が早すぎただけ」
ふたりはぎこちなく笑い合った。久しぶりの再会に、お互い少しだけ緊張しているのが伝わってくる。隣のテーブルに座ったとき、間に流れた沈黙は、ふたりの時間の経過を象徴していた。
「……元気だった?」
「まぁ、それなりに」
「光平くんは、いつも“それなり”って言うよね。ほんとはもっといろいろ抱えてるくせに」
「……図星かもしれん」
「知ってるよ」
言葉のひとつひとつが、まるで鋭くて、それでいて温かい。彼女のそういうところを、光平は昔から尊敬していたし、同時に怖くも感じていた。
「……あのとき、わたし、ちゃんと言えばよかったと思ってる」
「え?」
「“あなたのスキルは、ちゃんと伝わってる”って。努力してることも、誠実さも。でも、わたし、自分のことで精一杯だった。今さらだけど、ずっと言いたかった」
光平はうつむいたまま、返す言葉を探した。そして、ぽつりとつぶやくように言った。
「俺も、言えなかった。隣にいるだけで満足してるふりして、内心はずっと不安だった。お前と比べて、自分が劣ってるって……勝手に思ってた」
「……そうだったんだ」
「うん。ずっと、劣等感に蓋して、空元気で誤魔化してた。でも……もう、そんなのやめたいって思ってる」
結菜香子はゆっくりと頷いた。その瞳はまっすぐで、けして泣いたりはしていないけれど、感情がしっかりと乗っていた。
「わたし、変わったよ。前は“できない自分”が許せなかった。でも今は、ちょっとずつでも進めばいいって思える。そういう自分を、好きになれた気がする」
「それって……すごいな」
「光平くんも、そうなれるよ。だってあなた、物事を誠実に捉えようとする力、ちゃんと持ってるから」
言われた瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。ずっと誰かに“必要とされたい”と思っていた。けれどその願いは、言葉にされない限り届かないと、どこかで決めつけていたのかもしれない。
ふたりは立ち上がり、加古川大堰の川沿いを歩いた。水面には夕陽が差し込み、きらきらと波が踊っていた。遠くには親子連れの姿が見え、どこか和やかな時間が流れていた。
「……ねえ、光平くん」
「うん?」
「たとえばさ、どんなにすれ違ったとしても、“君と過ごした幸せな時間”って、ちゃんと残ると思う?」
「……俺は、残ってる。今も」
「……よかった。わたしも、そう思ってる」
ふたりは立ち止まり、夕暮れの空を見上げた。川風が頬をなでるたび、心の奥にあったこわばりが、少しずつ溶けていく気がした。
そのとき、どこかで声が聞こえた。
「おーい! 久しぶりじゃん、光平!」
振り返ると、中学時代の同級生が手を振っていた。光平も思わず声を返す。
「おお、元気だった?」
その何気ない一言に、胸がぎゅっと締めつけられた。
“劣等感を抱く”こともある。けれどそれでも、自分を知る誰かと交わすたった一言が、こんなにも心を温めるとは思っていなかった。
ふたりの歩幅は、帰り道でも変わらずに揃っていた。
(chap192 完)