【chap191 高砂市】
高砂神社の参道には、春先の柔らかな日差しが差し込んでいた。朝から降っていた小雨がやんだ午後、苔むした石畳のあいだから立ちのぼる湿った香りが、どこか懐かしい記憶を呼び起こす。鳥居の奥、しんと静まり返った境内に足を踏み入れた秀樹は、ふと胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。
この町に戻ってくるのは、何年ぶりだろう。忙しさを理由に、ずっと帰ってこなかった故郷。だが今は、ほんのひとときでも「流れを止めたい」と心から思っていた。仕事では“ワンマン”だとよく言われる。確かに、自分のやり方で周囲を引っ張ることが得意だった。だが、いつしかそれは「ひとりよがり」にすり替わっていたのかもしれない。
そんなとき、美麗子から突然のメッセージが届いた。
「たまには、心を労わってあげないとね。高砂温泉でも行ってくれば? 昔みたいに」
それだけの言葉だったのに、なぜか胸がじんと熱くなった。彼女とはかつて恋人同士だった。けれど長くは続かなかった。美麗子の“他人に優しい”性格と、秀樹の“感情が表に出やすい”性格とが、うまく噛み合わなかった。彼女のやさしさに自分の苛立ちをぶつけることもあった。なのに彼女は、最後まで一度も責めなかった。
秀樹は神社の奥、縁結びの御神木の前に立ち、無言で手を合わせた。目を閉じて浮かんでくるのは、美麗子が残した言葉の数々。優しく、淡く、そしてどこか遠くを見つめていた言葉たち。
神社を出て、高砂温泉に向かう途中、彼はいつも通っていた小道を歩いた。古びた商店街の一角には、小さな花壇があり、そこに咲いた花を見て足を止める。寒椿と、早咲きのチューリップ。その隣に咲いた名も知らぬ小さな白い花を見つけた。
「……毎日通る道で、ふと見かけた花が少しずつ咲いていくのって、なんかいいよな」
思わず声に出していた。まるで、気づかぬうちに抱えていた自分の感情が、そこに現れてしまったようだった。
そのとき、不意に背後から声がかかった。
「そういうの、気づける人って、素敵だと思うよ」
振り向くと、そこにいたのは美麗子だった。以前と変わらない柔らかい瞳、風になびく肩までの髪。けれど、どこか以前よりも“凛とした強さ”を感じさせる佇まいだった。
「……偶然?」
「ううん、たぶん、これは偶然じゃない」
そう言って、美麗子はそっと微笑んだ。ふたりは自然と並んで歩き出し、やがて高砂温泉の玄関へと辿り着いた。施設自体は昔のままだが、浴場の窓から見える庭には、新しく植えられた桜の苗木が風に揺れていた。
「ねぇ、秀樹。昔さ、“俺は変われない”って言ってたよね?」
「言ったな。今もそうかも」
「でも、今日のあなたは、少しだけ変わってる気がする。“花の変化”に気づけるようになってるから」
その言葉が、ふと胸の奥にすっと染みこんだ。誰かに優しくされること、気づいてもらえること。そのひとつひとつが、今まで自分が拒んでいた“変化”への扉だったのかもしれない。
湯上がり、ふたりは温泉の休憩所で、ゆるやかな時間を過ごした。冷たい麦茶を飲みながら、思い出話を少しずつ交わす。気まずさも、昔の後悔も、すべてこの空気の中に溶け込んでいくようだった。
「また、来てもいい?」
「うん。……来てよ。いつでも」
ふたりは言葉少なに微笑み合った。
あの日々は戻らなくてもいい。けれど、これからの“時間”が、ふたりの心を静かに癒やしてくれるのなら、それでいい。
そう思えたことが、“すべてが順調に進む”と感じられる、何よりの証だった。
(chap191 完)