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【chap189 明石市】

 明石海峡大橋の向こうに陽が沈みかけ、空が桃色から群青へと溶け込むような時間帯。冷え始めた潮風が歩道橋を駆け抜けていくなか、裕二は立ち止まってポケットからハンカチを取り出した。額の汗を拭うでもなく、ただ手の中でくしゃくしゃと握りしめた。

 目の前に広がる明石海峡は、幼いころから何度も見てきた風景だった。だが、今日に限っては胸がざわついていた。穏やかな波を前にしても、どうしても“心の奥”がざらついている。その感情の正体は、彼自身も言葉にできなかった。

「……あいつ、来るかな」

 裕二がそうつぶやいたのは、梨華との約束の時間の15分前だった。待ち合わせ場所は、明石市立天文科学館の前。彼女が好きだった場所だった。科学館の屋上から見た夜空のことを、彼女はよく話していた。「小さな自分でも、大きな世界にちゃんと居場所があるんだって思えるから、好きなの」――そんな言葉を、裕二はぼんやりと覚えていた。

 裕二は、自他ともに認める“模倣的”な人間だった。周りのやり方を見て、上手に真似して、うまく立ち回る。だが、それは“誰かに合わせる”ための処世術でしかなかった。彼の本質はむしろ、誠実に物事に取り組む人間だった。だからこそ、“他者の助けを素直に受け入れる”ことができたし、その分“劣等感”にも人一倍敏感だった。

 そんな彼にとって、梨華は“まぶしい存在”だった。

 数分後、カツカツと硬いヒールの音が響いた。振り向かずとも、それが彼女だとすぐにわかった。梨華は、自分の限界を超えようと、常に“前”へと足を踏み出していた。困難な状況でも、問題解決のために“積極的にアイデアを出す”人間で、何よりも“前向き”だった。

「ごめん、待った?」

「……いや、俺が早すぎた」

「ふふ、それって“待ってた”ってことでしょ」

「かもな」

 ふたりはそれ以上何も言わず、天文科学館の前を歩き出した。館内には入らず、ただ外のベンチに腰掛けて、空を見上げる。西の空には、うっすらと星が瞬き始めていた。

「久しぶりに、こうやって並んで座るね」

「そだな……高校以来か?」

「うん。でも、あのときは言葉も少なくて、ただ“同じ空間にいる”って感じだった」

「それが、心地よかった気がするけどな」

「……裕二は、ほんと“変わらない”って感じ。なんで?」

「変わってないように見えるだけだよ。中身は……毎日、劣等感と格闘してる」

「……そっか」

 梨華はしばらく空を見ていた。雲の切れ間から、木星がうっすらと光を落としていた。彼女はその光を指さしながら、言った。

「わたしね、自分が変わるのが怖かった時期もあった。でも、もっと怖かったのは、何も変わらないまま誰にも認められずに終わること」

「それ、俺も思ったことある……」

「でも、最近気づいたの。わたし、誰かに認めてほしくて頑張ってたけど、“本当に大事な人”に伝えたいのは、“頑張ったよ”じゃなくて、“そばにいてくれてありがとう”なんだって」

 裕二の視線が、そっと梨華を見た。彼女の言葉の奥には、何度も挑戦し、何度も転び、それでもなお歩き続けてきた人間だけが持つ静かな強さがあった。

「……梨華」

「ん?」

「俺……あの頃、あんまり自信なかったんだ。自分が隣にいる資格なんてないって。お前が眩しすぎて、正直ずっと焦ってた。でも今は、少しだけ言える気がする。“隣にいたい”って」

 梨華は、目を細めて笑った。それは、何年も前に見た彼女の笑顔と同じだった。

「わたしも、ずっと“誰かと向き合う勇気”を持ちたかった。今やっと、それを伝える準備ができた気がするよ」

 ふたりの間に沈黙が落ちた。しかし、その沈黙は不安でも緊張でもなく、ただ優しくあたたかなものだった。

 やがて帰り道、歩道の角を曲がったところで、ばったり知り合いに出くわした。

「あっ、裕二くん?」

「……えっ、あ、ど、どうも……」

「わー、めっちゃ久しぶり!元気だった?」

「……う、うん。梨華も、ひさしぶりだね」

 そんな偶然の再会に、ふたりは互いに顔を見合わせて小さく笑った。そのやり取りが、なぜか“あたたかい終わり”のように感じられた。

 互いに向けた“元気だった?”の一言が、予想以上に胸に染みた。それは、ただの挨拶以上の意味を持っていた。自分の存在を覚えていてくれる人がいること、それを確認できた瞬間だった。

 “星降る夜の淡い告白”は、何も夜空を背景にした映画のような演出じゃなくてもいい。ただ、ありふれた会話のなかに、ひっそりと紛れ込んでいれば、それだけで充分だった。

 ふたりはそのまま歩き続け、明石の夜景がゆっくりと広がっていくなかで、互いの歩幅を無言で合わせていた。

(chap189 完)


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