【chap188 西宮市】
西宮神社の境内に吹く春の風は、まだ肌寒さを残しながらも、どこか心を撫でるような優しさを持っていた。恵太は手にした温かい缶コーヒーを小さく傾けながら、鳥居の前に立ち尽くしていた。もう何年も、こんなふうに「何も考えない時間」を過ごしたことがなかったような気がする。せかせかと働いて、未来の損得ばかり考えて、いかにミスなく、いかに堅実に人生を進めるか――彼の人生は、ほとんど「間違えないこと」でできていた。
でも、その完璧主義には、そろそろ疲れていた。
足元の砂利を踏む音に振り向くと、愛花がやってきた。落ち着いたベージュのスプリングコートに身を包み、肩にかかった鞄のベルトを無意識に直すその姿には、どこかしら“面倒見の良い姉”的な雰囲気があった。人に頼られるのが似合う人。けれど、そんな彼女もまた、最近は少し疲れた顔をしていた。
「ごめん、遅くなった?」
「ううん、俺が早く着いただけ。……ちょっとボーッとしてた」
「めずらしい。恵太くんが“無防備”って感じの顔してるの、あんまり見ないから」
「無防備か……そうかもな」
ふたりは境内を並んで歩き始めた。特に行く宛もないまま、まるでこの空気を吸いに来たような散歩だった。愛花は職場でも評判の“できる人”だったが、何よりすごいのは、その“集中力”だった。周囲がざわついていても、彼女はやるべきことを淡々とこなし、感情を挟まずに物事を片付けていく。その分、きっと多くのことを“心の奥にしまい込む”癖もあった。
「……最近、どう? 仕事とか」
「うーん……忙しいけど、まぁやれてる。でも、なんかこう、気が張りすぎてて。……変な話だけど、“決断を先延ばしにしたくなる”こと、増えたかも」
「意外。愛花さんは決めるの早いって、みんな言ってるのに」
「表向きはね。……本当は、いつも迷ってばっかり。誰かのために動いてるときは迷わないけど、自分のことになると、急に怖くなる」
「……なんか、わかる気がするな」
ふたりは歩きながら、自然と西宮北口方面へ向かっていた。夙川公園の川沿いに出ると、そこには早咲きの桜がいくつか、薄紅色の花を開いていた。風が吹くたび、ちらちらと舞い落ちる花びらが、まだ冬の匂いが残るアスファルトにふわりと積もる。
「俺さ、この前“ミス”してさ。書類の処理、手順飛ばして。最終チェックで気づいて回収できたから、誰にも怒られなかったけど……心臓止まるかと思った」
「恵太くんが?」
「そう。“ミスを恐れて緊張する”って、こういうことかって思った。自分、こんなにプレッシャー弱かったっけって。情けなかったよ」
「情けなくなんかないよ。……わたしもこの前、後輩に“元気だった?”って聞かれただけで、涙出そうになったもん」
「なんで?」
「わかんない。でも、“誰かが自分を気にかけてくれた”って思った瞬間、あっ……って、こみあげた」
ふたりはふっと顔を見合わせ、互いに苦笑いを浮かべた。会話の間合いが心地よくて、誰かに話すこと自体が、こんなにも救いになるのかと感じていた。恵太は、これまで築いてきた信頼と、目の前の小さなぬくもりが、必ずしも同じ価値で量れるものではないことに気づき始めていた。
「……なんか、今日は話してて気が楽になったな」
「うん。わたしも」
「ずっと“記憶の中に消えない笑顔”ってあるじゃん? 子どもの頃に誰かが笑ってくれたとか、励ましてくれた顔とか。今日の愛花さんの笑顔も、たぶん、そんな感じで残ると思う」
「……それ、口説いてる?」
「まさか。ただ、そういう笑顔は、消えてほしくないなって思っただけ」
愛花は小さく笑ったが、その目は真剣だった。
「ありがとう。今日、“誰かから元気だった?”って聞かれたときみたいに、嬉しい気持ちがこみ上げたよ」
「それ、言われると俺もなんか泣きそうになるな……」
ふたりは歩きながら、笑った。夕暮れの光が川面にきらきらと反射し、そのまばゆさがふたりの影を長く伸ばしていく。未来のことも、迷いも、すべてその影の先に任せたような気持ちで、今はただ隣にいる温もりだけを信じた。
誰かに見えない努力を認めてもらえたとき。誰かからのさりげない言葉が心に刺さったとき。そして、“自分の弱さ”さえも共有できたとき、人はようやく、“強さ”を見つけるのだと知った。
それが、今日ふたりが得た答えだった。
(chap188 完)