【chap187 尼崎市】
尼崎城の白い天守が夕陽に照らされ、薄紅色の光がその壁にゆらゆらと映っていた。その足元を流れる水堀には、風に揺られる水面がきらきらと反射し、まるで城が静かに笑っているように見えた。その景色を、貴明は無言で見つめていた。
ひとりでいるのが苦手なタイプではない。むしろ、何かに没頭している時間は、いつも自分を充実させてくれる。けれど今日は、なんとなく胸の奥に引っかかる感情が残っていた。どこか“おせっかい”に行きすぎた気がしていた。
「自分のことばっかり考えてるって言われても、仕方ないかもな……」
ぽつりと漏らした声に、応える者はいない。ただ風が吹き、白い城の壁が夕暮れに染まっていく。目の前に立つ城が、今にも口を開いて説教してきそうな気さえした。俺がどれだけ人のためを思って動いても、相手にそれが“押し付け”に見えたら終わりだ――そんな思いが、心に沈殿していた。
そのとき、後ろから小さな足音がした。振り向くと、ひなだった。マイペースで、どんなときも自分のリズムを崩さず、物静かで、だけど芯のある瞳をしている彼女が、ほんの少しだけ顔をしかめて歩いてくる。
「……またひとりで先に来る」
「悪い。呼び出しておいて待たせるの、苦手なんだよ」
「それ、嘘。落ち着かないだけでしょ」
図星だった。貴明は頬をかく。ひなはそういうところだけ妙に勘が鋭い。だが責めるでもなく、いつも“自分のペース”で淡々と事実を伝えてくる。
「それより……さっきのLINE、気になった」
「え?」
「“俺が悪かったかも”って」
「……ああ、あれな」
「ねえ、それ、わたしに言ってる? それとも、自分に?」
貴明はしばらく黙っていたが、やがてベンチに腰を下ろし、ひなもその隣に座った。まだ陽は落ちきらず、オレンジ色の空がふたりの顔をぼんやり照らしている。
「なあ、ひな」
「うん」
「この前さ、映画のチケット取ったとき。俺、お前の好きなジャンル、聞かずに決めちゃったろ?」
「うん。ホラーだった。しかも、わたし苦手って言ったのに」
「……あれ、正直、“俺が面白いと思うやつ”見せたくてさ。お前も笑ってくれるって思ってた。……今思うと、ただの自己満だったなって」
「うん。自己満だったね」
「うっ」
「でもね、わたし、貴明くんが“これ見せたい”って言ったとき、ちょっと嬉しかったよ」
「え?」
「だって、自分の好きなものを共有したいって思ってくれたんでしょ。それって、“自分の好き”を信じてるってことだもん。悪くないよ」
「……ひな、お前、ほんとにそう思ってんの?」
「うん。ただ、次はちゃんと聞いて。わたし、ホラーよりアクションか、ドキュメンタリーがいい」
「お、おう……気をつけます」
やんわりと返されたダメ出しに、貴明は思わず苦笑いを浮かべた。ひなは、マイペースながら“着実に努力を続ける”人だった。黙っていても、その積み重ねが、自然と周囲を安心させるような温度を持っていた。
「……貴明くんって、ほんとにおせっかいだよね。でも、悪い気はしないの。不思議」
「おせっかい上等、だろ。俺の強み、そこだけだし」
「それ、強みっていうより“暴走”のときもあるよ」
「うぐっ……否定はしない」
ふたりの間に流れる風が、ほんの少しだけあたたかくなったように感じられた。夕空の下で笑い合うふたりの声に、遠くを歩く観光客の視線が一瞬だけ向けられたが、当の本人たちは気づきもせず、そのまま言葉を交わし続けた。
「ところでさ、次の映画、今度はお前のおすすめでいいよ。なにかある?」
「……あるよ。でも、その前にひとつ、約束してほしい」
「なに?」
「“内緒の約束”ね」
ひなが、少しだけ真面目な顔で言った。その響きに、貴明は冗談交じりの顔から真剣な表情に戻る。
「……わかった。聞く」
「わたしね、たぶん、これからもっと“不安”なことが増えてくると思う。仕事も、家のことも、将来のことも……だけど、そのたびに、こうやって“何気ない時間”を共有できる人がいたら、がんばれる気がする」
「……それってさ」
「言わせない。今はまだ“内緒”だから。いつか、自分の言葉でちゃんと言う。そのときまで、忘れずにいて」
貴明は頷いた。それが“約束”だと感じたから。
その日、ふたりは尼崎スポーツの森をぶらぶらと歩いた。少し遅くなった春の空気が、芝生の上を穏やかに流れていく。互いの好きな映画を観るために、ふたりは次の週末を約束した。たとえ不安があっても、それに名前をつける前に、一緒に笑える時間があれば、それでいい。
それが、ふたりにとっての“愛のかたち”の原型だった。
(chap187 完)