【chap186 姫路市】
姫路城の白壁が、西陽を受けて静かに輝いていた。観光客で賑わう表通りから少し外れた裏手の石畳には、夕方の光が長く影を落とし、そこを歩く優真の足取りもまた静かだった。誰もいない細道に、彼のスニーカーの擦れる音だけが残る。
彼の表情には、何かを押し殺すような張り詰めた気配があった。無名のまま満足する――そう自分を定義してきた男にとって、他人の評価や賞賛は常に遠い世界のものだった。だが今、彼の歩みに宿る緊張感は、それが“例外”であることを示していた。
スマホの画面には、瑠美からの短いメッセージが残っていた。「今日、姫路城の西門あたりで会えない?」たったそれだけ。だが、その一文が彼の心を静かにざわつかせていた。
彼女とは、大学時代の同期だった。何かを一緒に頑張った記憶はあまりない。ただ、会えば挨拶し、何となく会話が弾み、そのままふんわりとした関係が続いていた。淡い、でもどこか確かな存在。お互い、特別な意味をつけずに、ずっと“なんとなく”を続けてきた。
それがこの日、唐突に破られようとしている。
「……来てくれるかな、本当に」
呟いたその声は、誰に向けたわけでもなかった。だが、その直後。
「優真くん」
声が背後から響いた。振り向けば、夕焼けを背にして瑠美が立っていた。整ったスーツ姿。髪はいつもより丁寧にまとめられていて、目元には淡くアイラインが引かれていた。彼女らしくもあり、でも少しだけ“他人行儀”にも見えた。
「……来てくれたんだ」
「うん。ちょっとだけ、話したくて」
ふたりは城の石垣を背に、腰をかけられる場所を見つけて座った。吹き抜ける風が、草の匂いとほのかな潮の香りを混ぜて運んできた。
「久しぶりに、こっち戻ってきたの?」
「そう。出張で神戸に来てて、足延ばしたくなって」
「……俺、なんも変わってないよ。ここにいるまんま」
「それでいいじゃない。あなた、いつも変わらずに自分のペースで努力してた」
「目標があるだけで、誰にも言わないだけ」
「でも、わたしには見えてたよ。……そういうところ、好きだった」
不意に差し込まれたその言葉に、優真の指先が微かに震えた。言われ慣れていない。ましてや“好きだった”なんて言葉は、彼にとって遠い世界の言葉だった。
「……瑠美、なんで急にそんな話?」
「言わなきゃって思ったの。昔、あなたの目を見て、ほんの少し怖いって思った。でも同時に、吸い込まれるような気もして……あのとき、ちゃんと向き合ってれば、なにか変わってたのかなって」
「向き合うって、そんな簡単じゃないだろ」
「そう。でも、言わなかったほうが後悔するって、ようやくわかったから」
言葉の選び方、タイミング、そのすべてが瑠美らしい“精緻さ”だった。周囲の意見をよく聞き、考え抜いた末の選択だったとわかる。だが同時に、彼女の瞳の奥には“それでも伝えたい”という熱が宿っていた。
優真はしばらく沈黙していた。目の前の彼女を、どんな言葉で受け止めるべきか、自分の中で言葉がまとまらなかった。
「……俺はさ、ずっと一人で走ってきた。勝ちたいって気持ちが先にあって、誰かと一緒に歩くって発想がなかった」
「それ、今も変わらない?」
「変わった、かもしれない。……いや、変わりたいと思ってる」
「どうして?」
「……わかんない。でも、今日みたいに誰かとちゃんと話してると、少しだけ“気持ちいい”って思った」
「……そっか」
瑠美は、そっと微笑んだ。その笑顔が、夕焼けの光を受けてふわりとやわらかく見えた。その表情に、優真は不意に心を揺さぶられる。
「もうすぐ暗くなるね」
「うん……でも、もうちょっとだけ、ここにいようか」
「……いいよ」
そのとき、どこからか小さな子どもの声が聞こえた。「今日はどこ行きたい?」と母親に尋ねられ、「おしろー!」と弾むような返事をする声。そのやりとりを耳にして、瑠美の目がほんの少しだけ潤んだ。
「……いいな、ああいうの」
「家族?」
「ううん。あの素直さ。わたしたち、いつからか、自分の行きたい場所も言えなくなってた」
「……なら、今ここで言えばいいんじゃないか?」
「え?」
「どこ行きたい?」
「……今は、あなたの隣。今度は、ちゃんと並んで歩きたい」
優真は黙って、隣にいる瑠美の手をそっと取った。その手は冷たくも熱くもなく、ただそこに“確かにある”という実感だけがあった。
今日この場所で、彼が見つけたのは“目標に向かってひたむきに進む”自分の延長線上に、“誰かと手を取り合う未来”があってもいいのかもしれないという、ひとつの可能性だった。
そしてその始まりは、“小さな窓越しに見つけた君”の笑顔だった。
(chap186 完)