【chap185 兵庫県】
朝から降っていた雨が上がった午後、阪神間の住宅街にある古い郵便受けに、一通の葉書がぽつんと入っていた。雨に濡れないよう半分だけ差し込まれたそれを、壮一はそっと引き抜いて手に取った。差出人の名に、目を細める。
「……真里奈?」
声には出さず、けれど心の中で確かにその名を呼んだ。高校を卒業してからもう十年近く、連絡も途絶えていた名前だった。封筒の中には短い手紙が入っていた。
「突然でごめんなさい。今度、明石に行きます。もし時間があったら、少しだけ話がしたいです。あの海辺の場所で、また会えたら嬉しいな――真里奈」
壮一はしばらくその文面を見つめ、玄関に立ち尽くしていた。家の中には誰もいない。壁時計の針が静かに進む音だけが耳に届く。
彼は“新しい経験を積極的に取り入れる”人間だった。けれどその内側には、“主体性がない”という矛盾も抱えていた。自分から誰かを強く引っ張ることは苦手だったし、他人の提案に合わせることで居心地のよさを確保してきた。それでも、一見クールでドライに見えるその態度の下には、誰にも見せない“心の傷”のようなものが眠っていた。
思い出したのは、あのときの最後のやりとりだった。雨が降っていた午後、駅のホームで「もう会わない方がいいね」と彼女が言った言葉。その後ろ姿を、壮一は呼び止めることもできず、ただ立ち尽くしていた。自分には、それを覆すほどの情熱もなければ、自信もなかった。
だが今――彼の手には、もう一度その続きを始めるきっかけが握られていた。
数日後、壮一は明石海峡大橋の見える海辺の公園に向かった。空はよく晴れていたが、波の音は少しだけ荒く、風に乗って潮の匂いが鼻先をかすめた。ベンチに座って時間を確認する。約束の時刻までは、まだ数分早かった。
と、その時。
「お待たせ」
どこか変わらない、けれど少し大人びた声。壮一が振り向くと、そこには真里奈がいた。以前よりも髪が伸びていたが、目元の柔らかい雰囲気は変わらず、どこか懐かしさを含んでいた。
「久しぶり、壮一」
「……ほんとに来ると思わなかったよ」
「わたしも、ほんとに手紙出すと思ってなかった」
ふたりは自然と笑った。目を合わせながらも、言葉を探しているようなぎこちなさ。けれど、それは決して不快なものではなかった。むしろ、時間をかけて育て直すべき距離のようにも思えた。
「ここ、変わってないね」
「そうだな。あのときも、こうして座ってた」
「うん……最後の日も」
壮一は返す言葉に困った。けれど、真里奈の表情は責めるでもなく、ただ思い出をなぞるように穏やかだった。
「ねぇ、あのとき、なんで何も言ってくれなかったの?」
唐突にそう聞かれて、壮一の胸の奥に、かすかな痛みが走った。
「……言う資格、ないと思ってたから。俺、ずっと受け身だったし、自分の気持ちをちゃんと伝えたことなんてなかった。お前がどうしたいかに任せてばっかりで……」
「わたし、それが少しだけ苦しかった。でもね、わたしも人のこと言えなかった。自分を過小評価してばっかりだったから」
「……真里奈」
「でも、今なら、ちょっとだけお互いに柔らかくなれた気がする」
ふたりの間に吹く風が、言葉の代わりに心をなぞっていくようだった。ときおり飛んでくる海鳥の声が、静寂の中に優しく響いた。
「この間さ、ふとした瞬間に思い出したんだよ。長い間連絡もとってなかったけど、ふいに“あの人、今どうしてるかな”って。だから、便りを出した」
「それが……運命の糸、ってやつか?」
真里奈は笑った。
「……信じるようになったの?」
「前は鼻で笑ってたけどな。今は、ちょっとだけ信じてる」
「ふふ、素直になったじゃん」
ふたりはまた笑い合った。何度もすれ違い、言葉を飲み込んできた年月のあとに、それでもこうして並んで笑える日が来るなんて、想像もしていなかった。
その日の夕方、ふたりは明石公園のベンチに並んで座った。遊歩道には、のんびりと散歩する老夫婦や、ランニングする若者が通り過ぎていく。そんな日常の中で、壮一はふと口を開いた。
「なあ、真里奈」
「うん?」
「もしまた、会ってくれるなら……今度はちゃんと、俺から声をかける」
「……うん、待ってる。幸せ、共有しよ?」
「共有、ね」
壮一は、初めてその言葉の意味を、深く実感した。自分の中に眠っていた感情が、ふたたび呼吸を始めていた。ひとりで抱えるには重たかった想いが、今、ようやく言葉になろうとしている。
そして、それは長い年月を経て――“ふとした瞬間に、長い間連絡を取っていなかった友人から便りが届く”という奇跡によって導かれた再会だった。
(chap185 完)