【chap184 茨木市】
茨木神社の境内には、春の終わりを告げる風が吹いていた。参道に敷かれた玉砂利がさらりと音を立て、その上を歩く大河のスニーカーが静かに踏みしめていく。境内の左手には、季節外れの梅の花が数輪、ぽつんと咲いていた。自然と目を奪われるように足が止まり、大河はしばらくその小さな花びらを見つめていた。
彼の視線の先に、美おりが現れたのは、そのちょうど数秒後だった。少し遅れてやってきた彼女は、控えめに「ごめん」と笑いながら、小さく頭を下げた。彼女は、どんな小さなことでも丁寧に扱う人だった。それは日常の所作にもよく表れていて、今こうして会釈をするその仕草にも、どこか慎ましやかな心遣いが滲んでいた。
「久しぶり、だね」と美おりが言う。
「うん、半年ぶりか?」
「それくらい。会ってない間に、季節が三つも変わっちゃった」
「……それだけ、俺たち、忙しくしてたってことかもな」
ふたりはそのまま並んで歩き出す。茨木市文化会館へ向かう道の途中、商店街の小さな文具屋の前で足を止めた。ショーウィンドウには、新入学セットやカラーペンが並べられていて、そこに書かれた「おめでとうございます!」の文字が、どこか眩しく見えた。
「なんかさ、懐かしいね。こういうの見てると」
「俺たちも、こんなふうに何かを始めること、まだできるんかなって思うよ」
「できるよ。たとえ小さな一歩でも、“日々の成長”って、実感できるもん」
その言葉に、大河は軽く目を伏せて頷いた。彼は、物事を俯瞰して見るのが得意な人間だった。状況全体を冷静に捉え、そこにどうアプローチすれば最善かを考える。だからこそ、日常の小さな変化を見逃しがちだった。でも、美おりは違った。彼女はどんな些細な瞬間でも、かけがえのないものとして心に留める力があった。
文化会館に着くと、ちょうど地元の小さな吹奏楽団がリハーサルをしていた。ガラス越しに見える練習風景を、ふたりはしばらく無言で眺めていた。
「ねえ、大河くん」
「ん?」
「わたし、こういう場所好き。誰かが何かに集中してて、それを見てるだけで、自分まで力をもらえる」
「美おりらしいな。……でも、わかる気もする」
「自分にできることなんて小さいけど、それでも誰かの何かの役に立てたら、嬉しいじゃない?」
「うん、そうだな。……俺も、そう思いたいと思ってる」
そのあと、ふたりは喫茶店に入った。古いジャズが流れる静かな空間で、各々ホットコーヒーを注文し、しばらく言葉少なに時間を過ごした。けれど、その沈黙が苦になることはなかった。お互いの呼吸が、どこか同じテンポで流れているような心地だった。
「ねぇ、大河くん」
「ん?」
「この前、駅で見かけたカップルがね、すごく楽しそうに手を繋いで歩いてて……見てるだけでほっこりしたの」
「それって、“重ねる記憶”ってやつかな」
「……うん、きっとそう。わたしも、そういう時間を大事にしたいなって思った。何気ない時間を、ちゃんと積み重ねていくの」
大河は、その言葉に静かに目を細めた。彼の中で、何かが腑に落ちたような感覚があった。
「俺も、そう思う。成果とか、効率とか、そういうことばっかり考えてきたけど……最近ようやく、“一緒にいる意味”を考えるようになった」
「うん」
「……ありがたい、って思える瞬間が、俺にもちゃんとあるんだって。美おりといると、そう思える」
その言葉に、美おりは静かに微笑んだ。少し涙ぐんでいるようにも見えたが、それを隠そうとせず、ただ静かに頷いた。
カフェを出ると、茨木神社の境内に再び足を運んだ。空はすっかり夕方色に染まり、石畳の影が長く伸びていた。すれ違う家族連れの笑い声、手を繋いだ老夫婦の穏やかな足取り。そのすべてが、ふたりにとっての“答え”のように感じられた。
「今日は……ありがとう、大河くん」
「こちらこそ。俺のほうこそ、“ありがたい”って思ってる」
ふたりは言葉の余韻を大切にしながら、ゆっくりと歩いた。夕焼けの空の下、影と影が重なり合うように、ふたりの距離もまた、自然と縮まっていた。
(chap184 完)