【chap183 枚方市】
週末の午後、ひらかたパークの観覧車が空にゆっくりと回っていた。地上の喧騒からは少し距離を置いた高さのなかで、こうきは自分の足元をじっと見ていた。観覧車のゴンドラの中、彼の隣には恵梨子が座っていたが、ふたりの間に言葉はなかった。静かだった。気まずさとも違う、でも心が解け切らない沈黙だった。
こうきは、他人を引っ張っていくことが得意な男だった。堂々としていて、進取の気性を持ち、知識も豊富で、人前では堂々とした態度を崩さない。けれど今、ゴンドラのなかで彼は、まるで自分を持て余しているように黙り込んでいた。
一方の恵梨子は、物静かで、自ら話を切り出すことは少ない。だが内側には、しっかりとした芯があって、短期的な目標と長期的な目標のバランスを常に意識している。彼女にとって感情は“扱うもの”であって、“表に出すもの”ではなかった。
そんなふたりが、今こうして向かい合っている。こうきにとっては、恵梨子の無言がなによりも重たかった。あのとき、自分は何か間違ったことをしたのか。何か、伝えるべきだったのか。ふとそんな思考が、彼の頭のなかをめぐる。
「……ごめん」
「なんで?」
「今日、ここに来ようって言ったの、ちょっと軽かったかもしれないなって思って」
「そうなの?」
「わからない。恵梨子の気持ち、ちゃんと聞いてなかったなって」
恵梨子はふっと目を細めて、ゴンドラの窓の外を見た。そこには、小さな子どもたちが笑顔でメリーゴーランドに乗っている姿があった。その景色に、彼女の表情が少しだけ和らいだ。
「わたしね、こういう場所って、どこかおびえちゃう」
「え?」
「“楽しそうにしてるべき”って、空気があるでしょ? 笑わなきゃいけない。盛り上がらなきゃいけない。でも……わたし、感情って、もっと自然なものだと思ってるから」
「……恵梨子、そういうふうに考えるんだな」
「うん。だから、こうきみたいに堂々と楽しめる人を見ると、ちょっと羨ましくなる」
こうきは、初めて気づかされたような顔をした。自分が引っ張っていくのが得意だからといって、それが相手にとって心地いいとは限らない。それが、今ここで突きつけられた現実だった。
「でもね、今日ここに来たのは、正解だったかも」
「……そうなの?」
「だって今、こうして何も考えずに、観覧車に揺られてる時間。なんにも言わなくていい時間があるって、案外貴重だなって」
その一言に、こうきは肩の力が抜けるのを感じた。恵梨子の口から、そんな感情の断片が聞けたことが、彼にとってはとても大きな一歩だった。普段、彼女は自分の感情を言葉にすることを避ける。だからこそ、こうして向き合える瞬間が、彼には“永遠の一瞬”のように思えた。
観覧車がてっぺんに差し掛かり、ふたりは眼下に広がる街を見下ろした。遠くには枚方市立博物館の屋根が見え、あの静かな展示室の空気がふいに思い出された。前にふたりで行ったとき、恵梨子はほとんど口をきかなかった。でも帰り道、ふとつぶやいた言葉を、こうきは今でも覚えている。
「……あのとき、言ってたよな。“展示品よりも、展示室の静けさのほうが心に残る”って」
「うん。いまもそう思ってるよ」
「俺も。たぶん……ああいう空気があるから、ふたりでもいられるんだろうなって思う」
観覧車が地上に近づき、ふたりの顔にも少しずつ日常の表情が戻ってくる。だがそのなかには、確かな安心感があった。高所にいなくても、心の距離が近づいていると感じられる、そんな瞬間だった。
観覧車を降りて、園内を歩きながら、恵梨子が小さく呟いた。
「ねえ、こうき。もしも、何も考えずにリラックスできる場所があるとしたら、どこがいい?」
「そうだな……今日みたいに、観覧車の中も悪くなかった。でも、俺は……恵梨子の隣なら、どこでもいいかもしれない」
「……言ったな、それ」
「言ったよ。だって、今日ほど“おびえた”気持ちになって、でもそれが和らいだ日ってなかったから」
「わたしも。……ありがとう」
風が吹き、ふたりの間をやさしくすり抜けていく。こうきは、そっと手を伸ばした。恵梨子は迷いながらも、その手を受け取った。交わされた手のぬくもりが、ふたりの関係に、新たな温度を宿していった。
それは、言葉ではないけれど、確かな合図だった。
(chap183 完)