表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
181/205

【chap181 和泉市】

 和泉葛城山の麓にあるカフェ「こもれび」は、観光ガイドには載らないが、地元の人々の間では“心がほどける場所”として知られていた。自然に囲まれたその静かな佇まいは、鳥のさえずりと風の音に耳を傾けるだけで、心のざわめきをゆっくりと撫でてくれる。テラス席に座った海翔は、湯気の立つコーヒーカップに両手を添えながら、目の前の景色に視線を落としていた。

 彼の隣では、涼楓がスケッチブックを開いていた。肩までの髪が風にそっとなびき、ペン先が紙の上を柔らかく滑る。彼女は無口だが、物事に粘り強く取り組む姿勢を持ち、他者との違いも理解しようとする器の深い人だった。海翔はそんな彼女と過ごすこの時間が、ひそかに心地よくて仕方なかった。

「……さっき、カフェの奥さんが言ってたんだけどさ」

「ん?」

「このあたり、今がちょうど一番風が気持ちいい時期なんだって。春と夏の間にしか吹かない、山からの涼風らしい」

「へえ……」

 涼楓はうなずきながら、手を止めずに描き続ける。その絵は、目の前の山ではなく、カフェの軒先に吊るされた風鈴と、そこに差し込む光のきらめきだった。海翔はそれを横目に、ふっと笑った。

「なんで、山じゃなくてそっち描いてんの?」

「……だって、そっちの方が“優しさに溢れる”気がしたから」

 その言葉に、海翔は少し驚いたように目を見張った。だがすぐに、彼はその感性に納得したように目を細める。涼楓の言葉選びは、いつも丁寧で、そこに含まれる感情はどこか透明だった。彼女の見ている世界は、決して派手ではない。でも、じんわりと心をあたためる何かが、いつもそこにはあった。

「海翔って、ミーハーだよね」

「おい、急にどうした」

「なんでも新しいもの、面白そうって飛びつく。……でもそれって、すごく前向きなことだと思うよ」

「皮肉か?」

「違うよ。尊敬してる」

 海翔は思わず照れ笑いを浮かべた。彼自身、自分の好奇心旺盛な性格を“浅い”と揶揄されることがあった。けれど、涼楓の口から“尊敬”という言葉が出たことが、意外で、そして嬉しかった。

「……そう言われたの、初めてかもな」

「だろうね。でも、他者の意見を受け入れて、いっしょに解決しようって思える人って、簡単にはいないよ。私は……そういう人、好き」

 その“好き”という言葉が、一瞬空気を止めた。涼楓はあくまでさらっと口にしたが、海翔はそれを“偶然”とは受け取らなかった。彼の中に、ゆっくりと熱が広がっていく。

「……なあ」

「うん?」

「今日は、俺の話じゃなくて、涼楓の話が聞きたい」

「わたしの?」

「うん。普段あんまり、自分のこと話さないじゃん。だから……もっと、知りたいなって思ってさ」

 涼楓は少し黙り込んだ。だが、その沈黙は拒絶ではなく、どう言葉にするか迷っている時間だった。やがて彼女は、少し遠くを見るような目で、静かに口を開いた。

「わたし、昔、よく『地味だね』って言われてたの。声が小さくて、すぐに引っ込んじゃうから。派手な友達の陰にいるほうが楽だった。目立ちたくなくて、でも……本当は、誰かと心を通わせたかった」

「……そっか」

「だから、友達が『今日は一緒に何かしよう』って言ってくれると、すごく嬉しかったんだ。心が温かくなるって、そういうときに知ったの」

 海翔は、言葉に詰まった。今、彼の中に湧き上がる感情は、尊敬と愛しさが混じった、どこか切ない想いだった。黙っていれば通り過ぎてしまうような“声にならない記憶”が、今ここに姿を現したのだ。それを受け止めるには、自分もまた、素直でなければならない。

「……涼楓。俺も、正直……周りに合わせてばかりで、自分の気持ち、うまく伝えられないときあるんだ。でも、今はちゃんと伝えたい」

「なにを?」

「お前といると、すげえ居心地がいい。もっといろんなこと、いっしょにしたいって思ってる。たぶん……それが、“言葉じゃなくて気持ち”の伝わり方なんだって、今気づいた」

 涼楓は驚いたように目を見開いたあと、ふわりと笑った。その瞳の奥に、やさしさがにじんでいた。それはまるで、午後の山の風のように静かで、心をゆっくりと撫でていく。




 そのときふと、空の色が変わりはじめていた。山の向こうに太陽が沈みかけ、カフェのテラスが少しずつ陰に包まれていく。空の青さが濃くなるにつれて、風が少し冷たくなった。海翔は手の中のカップが空になっていることに気づき、ちょっと名残惜しげにテーブルに置いた。

「この時間、いいな。……なんか、未来が楽しみになる」

「……そうだね」

 涼楓もまた、膝の上でスケッチブックを閉じた。ページをめくる指先はゆっくりと、その余韻を楽しんでいるようだった。彼女の描いた風鈴と日差しの絵は、どこか幻想的で、それでいて、現実よりも優しい世界だった。

「でも、正直なことを言うとね」

「ん?」

「今もちょっと、悔しいって思ってる」

「なにが?」

「……わたし、本当はもっと言いたいことあったのに、うまく言葉にできなかった。でも海翔くんは、ちゃんと伝えてくれた。それが悔しい。わたしも、もっとちゃんと、言葉を選べるようになりたい」

 彼女の声は落ち着いていたが、その奥には確かに燃えるような感情があった。海翔はそれを見て、初めて気づいた。涼楓が“言葉選びが丁寧”なのは、感情を抑えるためじゃない。本当に大切にしたい思いがあるからこそ、粗末に扱えないだけだったのだ。

「悔しいって思えるの、すごいな。俺だったら、たぶん、ふてくされてる」

「ふふ、それも海翔くんらしい」

 そう言って涼楓は立ち上がり、肩を軽く伸ばした。テラス席の近くに吊るされた風鈴が、カランと涼しげな音を響かせる。その音に包まれて、ふたりはカフェを後にした。

 そして彼らは、和泉市立博物館へと足を運んだ。静かな展示室の中、他の来場者の姿は少なく、床に響く足音さえもどこか厳かに感じられる。古い陶器や絵巻物、地元の伝統工芸品が並ぶその場所で、涼楓の表情が変わった。

「……これ、うちの祖母が昔、作ってたのに似てる」

 展示されていた藍染の布を見て、涼楓が小さく呟いた。その横顔には、懐かしさと、それを失った痛みのようなものが交差していた。

「まだ家にあるの?」

「ううん、全部処分しちゃった。私が中学生の時に亡くなって、片づけを急かされて……でも、いま見たらやっぱり、残しておけばよかったって思う」

 海翔はそんな彼女の隣で、ただ黙って立っていた。何も言わないことが、何よりの寄り添いになると感じたからだ。彼は自分が“他者の意見を柔軟に受け入れる”性格であることに、こんなときほど救われたと思った。相手の沈黙に耐え、ただ共にそこにいること。それが、言葉よりも確かな関係を作るのだと。

 展示室を出てから、ふたりはそのまま和泉葛城山のふもとまでドライブした。夜のとばりが降りる山道を登りきると、そこには少し開けた見晴らし台があった。和泉市の街灯が点々と灯り、地上が星空のように輝いて見える。

 涼楓はその光景を前に、ぽつりと呟いた。

「……ここ、前に友達と来た時は曇ってて、何も見えなかったの。でも今日は、全部見える」

「今日は、良い日だったな」

「うん。ほんとに、良い日だった」

 海翔は、懐からポケットサイズのメモ帳を取り出した。それは彼がいつも持ち歩いているもので、ふと思いついた言葉やスケッチを記録するためのものだった。ペンでさらさらと書いたあと、涼楓に渡した。

 そこには、たった一言だけが書かれていた。

「優しさに溢れる瞳の奥に、ずっといたい」

 涼楓は、それを読んでからしばらく動かなかった。そして、そっとメモ帳を抱きしめるように持ち直した。

「……ずるい」

「なにが?」

「こっちは、やっと好きって言おうとしたところだったのに」

「先、越しちゃった?」

「うん。でも、ありがとう」

 彼女は、涙ぐみながら微笑んだ。その目に浮かぶ雫は、悲しみではなかった。やっと、心の中のもやもやが晴れて、そこに“自分の場所”ができたことへの、感謝と喜びの涙だった。

 そしてその日、ふたりは何も言わずに、肩を寄せ合った。風が吹くたび、彼女の髪が海翔の頬をかすめる。その感触が、ずっと続けばいいのにと思った。

 それはきっと、“悔しい”という感情の先に生まれた、ひとつの答えだった。

 ――「友達が『今日は一緒に何かしよう』と声をかけてくれ、その提案に心が温かくなる瞬間。」

 まさにその通りの日だった。

(chap181 完)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ