【chap181 和泉市】
和泉葛城山の麓にあるカフェ「こもれび」は、観光ガイドには載らないが、地元の人々の間では“心がほどける場所”として知られていた。自然に囲まれたその静かな佇まいは、鳥のさえずりと風の音に耳を傾けるだけで、心のざわめきをゆっくりと撫でてくれる。テラス席に座った海翔は、湯気の立つコーヒーカップに両手を添えながら、目の前の景色に視線を落としていた。
彼の隣では、涼楓がスケッチブックを開いていた。肩までの髪が風にそっとなびき、ペン先が紙の上を柔らかく滑る。彼女は無口だが、物事に粘り強く取り組む姿勢を持ち、他者との違いも理解しようとする器の深い人だった。海翔はそんな彼女と過ごすこの時間が、ひそかに心地よくて仕方なかった。
「……さっき、カフェの奥さんが言ってたんだけどさ」
「ん?」
「このあたり、今がちょうど一番風が気持ちいい時期なんだって。春と夏の間にしか吹かない、山からの涼風らしい」
「へえ……」
涼楓はうなずきながら、手を止めずに描き続ける。その絵は、目の前の山ではなく、カフェの軒先に吊るされた風鈴と、そこに差し込む光のきらめきだった。海翔はそれを横目に、ふっと笑った。
「なんで、山じゃなくてそっち描いてんの?」
「……だって、そっちの方が“優しさに溢れる”気がしたから」
その言葉に、海翔は少し驚いたように目を見張った。だがすぐに、彼はその感性に納得したように目を細める。涼楓の言葉選びは、いつも丁寧で、そこに含まれる感情はどこか透明だった。彼女の見ている世界は、決して派手ではない。でも、じんわりと心をあたためる何かが、いつもそこにはあった。
「海翔って、ミーハーだよね」
「おい、急にどうした」
「なんでも新しいもの、面白そうって飛びつく。……でもそれって、すごく前向きなことだと思うよ」
「皮肉か?」
「違うよ。尊敬してる」
海翔は思わず照れ笑いを浮かべた。彼自身、自分の好奇心旺盛な性格を“浅い”と揶揄されることがあった。けれど、涼楓の口から“尊敬”という言葉が出たことが、意外で、そして嬉しかった。
「……そう言われたの、初めてかもな」
「だろうね。でも、他者の意見を受け入れて、いっしょに解決しようって思える人って、簡単にはいないよ。私は……そういう人、好き」
その“好き”という言葉が、一瞬空気を止めた。涼楓はあくまでさらっと口にしたが、海翔はそれを“偶然”とは受け取らなかった。彼の中に、ゆっくりと熱が広がっていく。
「……なあ」
「うん?」
「今日は、俺の話じゃなくて、涼楓の話が聞きたい」
「わたしの?」
「うん。普段あんまり、自分のこと話さないじゃん。だから……もっと、知りたいなって思ってさ」
涼楓は少し黙り込んだ。だが、その沈黙は拒絶ではなく、どう言葉にするか迷っている時間だった。やがて彼女は、少し遠くを見るような目で、静かに口を開いた。
「わたし、昔、よく『地味だね』って言われてたの。声が小さくて、すぐに引っ込んじゃうから。派手な友達の陰にいるほうが楽だった。目立ちたくなくて、でも……本当は、誰かと心を通わせたかった」
「……そっか」
「だから、友達が『今日は一緒に何かしよう』って言ってくれると、すごく嬉しかったんだ。心が温かくなるって、そういうときに知ったの」
海翔は、言葉に詰まった。今、彼の中に湧き上がる感情は、尊敬と愛しさが混じった、どこか切ない想いだった。黙っていれば通り過ぎてしまうような“声にならない記憶”が、今ここに姿を現したのだ。それを受け止めるには、自分もまた、素直でなければならない。
「……涼楓。俺も、正直……周りに合わせてばかりで、自分の気持ち、うまく伝えられないときあるんだ。でも、今はちゃんと伝えたい」
「なにを?」
「お前といると、すげえ居心地がいい。もっといろんなこと、いっしょにしたいって思ってる。たぶん……それが、“言葉じゃなくて気持ち”の伝わり方なんだって、今気づいた」
涼楓は驚いたように目を見開いたあと、ふわりと笑った。その瞳の奥に、やさしさがにじんでいた。それはまるで、午後の山の風のように静かで、心をゆっくりと撫でていく。
そのときふと、空の色が変わりはじめていた。山の向こうに太陽が沈みかけ、カフェのテラスが少しずつ陰に包まれていく。空の青さが濃くなるにつれて、風が少し冷たくなった。海翔は手の中のカップが空になっていることに気づき、ちょっと名残惜しげにテーブルに置いた。
「この時間、いいな。……なんか、未来が楽しみになる」
「……そうだね」
涼楓もまた、膝の上でスケッチブックを閉じた。ページをめくる指先はゆっくりと、その余韻を楽しんでいるようだった。彼女の描いた風鈴と日差しの絵は、どこか幻想的で、それでいて、現実よりも優しい世界だった。
「でも、正直なことを言うとね」
「ん?」
「今もちょっと、悔しいって思ってる」
「なにが?」
「……わたし、本当はもっと言いたいことあったのに、うまく言葉にできなかった。でも海翔くんは、ちゃんと伝えてくれた。それが悔しい。わたしも、もっとちゃんと、言葉を選べるようになりたい」
彼女の声は落ち着いていたが、その奥には確かに燃えるような感情があった。海翔はそれを見て、初めて気づいた。涼楓が“言葉選びが丁寧”なのは、感情を抑えるためじゃない。本当に大切にしたい思いがあるからこそ、粗末に扱えないだけだったのだ。
「悔しいって思えるの、すごいな。俺だったら、たぶん、ふてくされてる」
「ふふ、それも海翔くんらしい」
そう言って涼楓は立ち上がり、肩を軽く伸ばした。テラス席の近くに吊るされた風鈴が、カランと涼しげな音を響かせる。その音に包まれて、ふたりはカフェを後にした。
そして彼らは、和泉市立博物館へと足を運んだ。静かな展示室の中、他の来場者の姿は少なく、床に響く足音さえもどこか厳かに感じられる。古い陶器や絵巻物、地元の伝統工芸品が並ぶその場所で、涼楓の表情が変わった。
「……これ、うちの祖母が昔、作ってたのに似てる」
展示されていた藍染の布を見て、涼楓が小さく呟いた。その横顔には、懐かしさと、それを失った痛みのようなものが交差していた。
「まだ家にあるの?」
「ううん、全部処分しちゃった。私が中学生の時に亡くなって、片づけを急かされて……でも、いま見たらやっぱり、残しておけばよかったって思う」
海翔はそんな彼女の隣で、ただ黙って立っていた。何も言わないことが、何よりの寄り添いになると感じたからだ。彼は自分が“他者の意見を柔軟に受け入れる”性格であることに、こんなときほど救われたと思った。相手の沈黙に耐え、ただ共にそこにいること。それが、言葉よりも確かな関係を作るのだと。
展示室を出てから、ふたりはそのまま和泉葛城山のふもとまでドライブした。夜のとばりが降りる山道を登りきると、そこには少し開けた見晴らし台があった。和泉市の街灯が点々と灯り、地上が星空のように輝いて見える。
涼楓はその光景を前に、ぽつりと呟いた。
「……ここ、前に友達と来た時は曇ってて、何も見えなかったの。でも今日は、全部見える」
「今日は、良い日だったな」
「うん。ほんとに、良い日だった」
海翔は、懐からポケットサイズのメモ帳を取り出した。それは彼がいつも持ち歩いているもので、ふと思いついた言葉やスケッチを記録するためのものだった。ペンでさらさらと書いたあと、涼楓に渡した。
そこには、たった一言だけが書かれていた。
「優しさに溢れる瞳の奥に、ずっといたい」
涼楓は、それを読んでからしばらく動かなかった。そして、そっとメモ帳を抱きしめるように持ち直した。
「……ずるい」
「なにが?」
「こっちは、やっと好きって言おうとしたところだったのに」
「先、越しちゃった?」
「うん。でも、ありがとう」
彼女は、涙ぐみながら微笑んだ。その目に浮かぶ雫は、悲しみではなかった。やっと、心の中のもやもやが晴れて、そこに“自分の場所”ができたことへの、感謝と喜びの涙だった。
そしてその日、ふたりは何も言わずに、肩を寄せ合った。風が吹くたび、彼女の髪が海翔の頬をかすめる。その感触が、ずっと続けばいいのにと思った。
それはきっと、“悔しい”という感情の先に生まれた、ひとつの答えだった。
――「友達が『今日は一緒に何かしよう』と声をかけてくれ、その提案に心が温かくなる瞬間。」
まさにその通りの日だった。
(chap181 完)