【chap180 大東市】
夕方の空は、どこか焦りを孕んだ色をしていた。茜色に染まりながらも、どこか肌寒い風が吹き抜け、住宅街の軒先で揺れる洗濯物の影が、アスファルトの地面に小刻みに踊っていた。大東公園の並木道を歩く佑の足音は、小石を踏むたびにわずかな音を立てる。手には紙袋がぶら下がり、中には数種類のスパイスと、生姜、そして冷蔵の鶏もも肉。今日は彼が初めて挑戦する料理の日だった。
頭の中でレシピを確認しながら、佑は小さく息を吐いた。
「……よし、まずは玉ねぎを炒めて……焦がすなよ、俺……」
彼の独り言は、誰に向けるでもない。けれど、緊張しやすい彼にとって、言葉に出すことで少しずつ不安を緩和させる癖だった。誰かと関わるときも、料理をするときも、彼はいつも“自分が誰かの役に立てているか”を意識していた。利他的で、でも不器用で、時にその優しさが彼自身を追い詰めることもあった。
その佑が今日、料理に挑む理由は一つだった。
「小春のレシピ、やってみようって決めたんだし」
つい先週、小春がふと教えてくれた“秘密の唐揚げレシピ”。素朴で、どこか懐かしくて、でもほんのりハーブが香る一品だった。「今度は佑くんが作ってみてよ」と彼女は笑って言った。彼女のその言葉が、ずっと佑の中でこだましていた。
文化会館の裏にある、地域の小さな調理室。今日は事前に予約を取って、ひとりで使わせてもらえるように手配していた。鍵を受け取り、ガラガラと音を立ててドアを開けると、窓から差し込む夕日が、調理台のステンレスを照らしていた。
エプロンを締め、材料を広げる。緊張で手が震えるのを押さえつけながら、佑は一つ一つの工程を確認した。玉ねぎをすりおろし、醤油とみりんを混ぜ合わせ、にんにくを少し控えめに加える。「小春はここで、レモン汁を隠し味に入れてたな……」思い出しながら、彼は慎重に計量スプーンを動かした。
やがて下味をつけた鶏肉を寝かせる時間になり、佑はようやく椅子に座った。ぐったりと背もたれに身体を預け、手元を見下ろす。どこか落ち着かない気持ちのまま、スマホを開くと、そこには小春からのメッセージが表示されていた。
「がんばってね、佑くん!失敗しても大丈夫だよ!一番大事なのは、挑戦してみようって気持ちだから!」
その言葉に、佑の唇がゆっくりとほぐれた。
「……そうだよな。俺、なんでも“結果がすべて”だって思ってた。失敗しちゃいけないって……でも、小春はいつも、“やってみよう”って言ってくれる」
彼女の性格は、“素朴”という言葉が似合う。飾らず、周囲を気にしすぎることもなく、自分の強みを活かして周りを明るくしていく。人前で声を張るわけではないけれど、その言葉には不思議な説得力があった。そんな彼女を見ていると、佑は“問題を冷静に捉えよう”とする自分の視点が、少しだけあたたかくなるのを感じた。
30分後、下味が染み込んだ鶏肉をひとつひとつ、丁寧に衣にくぐらせ、そっと油へと落としていく。ジューッという音とともに、香ばしい匂いが部屋中に広がる。焦げないよう火加減を調整しながら、彼は心の中で「頼むから、うまくいってくれ……!」と願っていた。
揚げ終えた唐揚げを皿に盛りつけたとき、窓の外では夕日が橙から群青へと、ゆっくりと色を変えていた。その色の変化が、まるで佑の胸の内を代弁しているかのように見えた。
「……できた、けど……ほんとにこれでいいのか……?」
試しにひとつ、恐る恐る口に運ぶと――思わず、声が漏れた。
「う、うま……っ」
じんわりと広がる生姜の風味。あとから追ってくるハーブの香り。衣はカリッとしていて、噛むと中はふんわり。味はまさに、小春が教えてくれた、あの“お気に入りのレシピ”そのものだった。
「……すげぇ……ほんとにできたんだ……」
自分でも驚くほどの嬉しさが、胸の奥から溢れてくる。それは、“愉快な気分”という一言では足りないくらいの、満足感と高揚だった。自分の手で、誰かがくれた想いを再現できた。その達成感に、佑はしばらく何も言えなかった。
ふと、外から誰かが文化会館の前を歩く音が聞こえた。窓の外をのぞくと、小春がこちらを見上げていた。にこっと笑って、手を振る。
「できた?」と無言で唇が動いた。
佑は、照れくさそうに、でも確かに頷いた。そして、ガラス越しに小さくピースサインを送った。
そのまま慌てて扉を開けた佑が出ていくと、ちょうど小春が階段を上ってくるところだった。夕暮れの光が彼女の頬にやさしく触れ、その笑顔を柔らかく照らしていた。風に揺れるカーディガンの裾と、スニーカーの音がコツコツと響く。それは、彼にとってまるで映画のワンシーンのようだった。
「佑くん、ほんとに作ったんだ。しかも、いい匂い!」
「……うん。小春のレシピ通り、ちゃんとやったつもりだけど……変なとこあったら、言ってな」
「ふふ、なにそれ。なんか緊張してる?」
「するだろ、そりゃ……。初めて誰かに食べてもらうって、こんなに緊張するもんなんだな」
小春は笑って、そっと佑の腕を軽くつついた。
「じゃあ、わたし、味見担当でいい?」
「もちろん」
ふたりは調理室に戻り、カウンター越しに佑が唐揚げの皿を差し出す。小春は手を合わせて「いただきます」と言い、ひとつを箸でつまんで、そっと口に運んだ。数秒、咀嚼して――ぱっと顔を明るくした。
「……すっごく、おいしい!」
その一言に、佑の肩の力が抜けた。安堵と照れ臭さが入り混じって、視線を泳がせる。
「ほんとに? 冗談とかじゃなく?」
「ほんと。わたしが作ったのよりも、ちょっと優しい味がする。佑くんっぽい」
「……ぽい、って、何だよ……」
「ちゃんと“佑くんの味”になってるってこと。わたし、それが一番嬉しいかも」
小春は、まっすぐ佑を見てそう言った。普段はふわふわした印象の彼女が、こうして芯のある言葉を投げかけてくると、佑はどうしても戸惑ってしまう。でも、逃げずに受け止めようとする気持ちが、彼の中にも確かに芽生えていた。
「……また作ってもいい?」
「もちろん。次は、いっしょに作ろ?」
その言葉に、佑はうなずいた。ああ、この人と一緒にいると、自分が少しずつ変わっていくのがわかる。緊張しても、失敗しても、“一緒に”なら前に進める。そんな感覚が、ゆっくりと心に染みてくる。
そのあと、ふたりは公園へ向かった。大東公園の池のほとりに腰掛け、残った唐揚げを分け合いながら、今日のことをぽつぽつと話した。水面に映る夕焼けが揺れて、どこまでも静かな時間が流れていた。
「ねえ、佑くん。わたし、昔からすごく不器用でね、なかなか“リーダー”とか任されたことないの。でも、最近ようやく気づいたの。誰かの前に立たなくても、隣で支えるっていうのも、“穏やかなリーダーシップ”の一つなんだなって」
「……それ、小春らしいな。俺もさ、緊張しやすいくせに、“ちゃんとしなきゃ”って思ってた。間違えちゃいけないって。でも、今日小春のレシピを再現してみて……“気持ち”が大事って、初めて思えた」
ふたりはしばらく無言で、ただ風の音と、遠くで遊ぶ子どもたちの声に耳を傾けた。その空気が、心地よくてたまらなかった。
「……小春」
「なあに?」
「いつか、ちゃんと……言いたいことがある。でも、まだうまく言葉にできない」
「うん。待ってる。だって佑くん、ちゃんと伝えたい人だもんね」
「……うん。ありがとう」
目の前にある、ありふれた夕暮れの公園。でも、今日だけは違った。自分が作った唐揚げを一緒に食べてくれる人がいて、自分の不器用な気持ちを受け止めてくれる人がいて。そして、そこに生まれるのは、たしかな“告白”だった。
言葉にしなくても、伝わるものがある。けれど、言葉にしたとき、それはきっともっと強く、もっと優しく、相手の心に届く。だからいつか、きっと伝える。笑顔とともに。
今日のこの“お気に入りのレシピを試してみて、美味しくできたときの嬉しさ”。それが、佑の中で“恋の始まり”の味として、ずっと残ることになるのだった。
(chap180 完)