【chap179 柏原市】
午後の陽光が斜めに射し込む柏原駅前。アスファルトの隙間から顔を出す雑草や、どこか古びた看板にさえ、どこか郷愁を誘うような味わいがある。けれどその景色を見つめる大樹の視線は、冷めていた。彼の指先はスマホの画面を無表情にタップし、通帳アプリの数字に視線を落とすと、わずかに眉間にシワを寄せた。
「チッ……またか」
口の中でつぶやいたその言葉には、苛立ちと自嘲が混じっていた。細かい出費の記録、コンビニで買った缶コーヒーすら憎たらしく思える瞬間。大樹は“お金にシビア”というより、もはや数字そのものと闘っているような男だった。目標を持って働き詰める彼にとって、無駄な出費や感情の浪費は“命の切り売り”に等しかった。
その彼が、今日こうして柏原市文化会館の前で足を止めたのは、自分の意思というより、他人の言葉に動かされた結果だった。
「このあと、時間ある? 少しだけでいいの。どうしても大樹に観てほしいの」
昨日、職場でそう言われたのは結奈だった。派遣の事務として静かに働いている彼女は、大樹にとって“わざとらしいくらいにいい子”の代表のように見えていた。他人に尽くしすぎるその姿勢も、やたら周囲に合わせてニコニコするところも、彼にはどこか“うさんくさく”映っていた。
なのに、断れなかった。そのとき、彼女が見せた瞳の色が、いつもよりほんの少しだけ真剣で、ほんの少しだけ切実だったからだ。
「……ったく。ああいうのに流されるの、俺らしくねぇのに」
文化会館のエントランスには、今日開催される小規模な朗読劇のポスターが貼られていた。地元の子どもたちや高齢者たちの名前が並び、「入場無料」と大きく書かれている。正直、大樹は芸術にも演劇にも興味がなかった。あくせく働いて稼いで、それを効率よく管理して生きる。それが彼のやり方だった。
だがその会場に足を踏み入れた瞬間、大樹の中の“予想”は裏切られた。結奈が登場したのは、物語の中盤。衣装も化粧も質素なままで、彼女はただ一人、静かに舞台の中央へと歩いてきた。
「……ある町に、小さな店がありました。店主は、いつも店先に立って、通りすがる人に声をかけました」
その語りは、芝居がかっていないぶん、じんわりと耳に残った。大きく張り上げる声ではなく、ささやくような、でもはっきりと伝わる声。客席の一角に座る大樹は、自然と息をひそめて聴き入った。
「その人は、誰かのために尽くすことを、自分の人生の喜びにしていたんです。でも、ある日ふと気づくのです。自分のことを、大切にできていなかったって……」
ふと、大樹の胸の奥に何かが沈んだ。その瞬間、彼の脳裏に、かつて母親がしていた家事の姿や、何も言わずに背中をさすってくれた小さな記憶が蘇る。あのときの母も、こんなふうに“誰かのため”に尽くしていた。今の結奈と同じように。
終演後、観客たちは温かい拍手を送った。観光客ではない、地元の人々の柔らかな手のひらから生まれる、穏やかな音。その中で、大樹は黙って立ち上がり、会館の裏手の喫煙所へ向かった。無言のままポケットから取り出したタバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込む。
「……来てくれて、ありがとう」
結奈の声に振り返ると、舞台用の衣装のまま、彼女がそっと立っていた。化粧はほとんど落ちていたが、目元だけは赤く、どこか潤んでいた。
「泣いた?」
「……ううん。泣いてない。嬉しかっただけ」
その言葉が、嘘に聞こえなかった。嘘をつくなら、もう少し上手に言えるはずだ。結奈は、泣くことで自分の気持ちを隠す人ではない。逆に、隠しごとをすればするほど、それが目の奥に出てしまうような人だ。彼女は“ロマンチスト”だ。大樹が失くした何かを、ずっと大事に抱えているような存在だった。
「……俺さ、こういうの、苦手なんだよ。感動とか、涙とか。そんなに器用な人間じゃねぇし」
「それでも、来てくれて、聴いてくれた。それだけで、わたしにとっては奇跡みたいなことだったよ」
結奈の声は小さく、でもはっきりしていた。彼女の言葉はいつだって誰かのために使われていて、自分の感情を語るのはとても不器用だ。だけど、今日だけは違った。
「……なんかさ、集中してるときって、ふと顔を上げた瞬間に、すごいきれいな空が目に入ることあるじゃない?」
「あるかもな」
「今日、それだった。朗読してて……目を上げたとき、あなたがいた。それが、空より綺麗だった」
ふいに胸が、ぐっと詰まる。それは、好きだの愛してるだの、甘い言葉よりも重たくて、やさしくて、あたたかかった。静寂の中で交わした愛の誓いとは、こういうものかもしれない。
大樹はしばらく言葉を失っていた。手元の煙草は指先でゆっくりと燃え尽きていき、灰だけがやけに静かに風にさらわれていった。結奈の言葉は芝居ではなかった。何度も繰り返される台詞ではなく、たった一度の、本物の気持ちだった。
「……まいったな」
ぽつりと呟いたその声は、笑っているようで、でもどこか苦しげでもあった。ネガティブな性格――それは昔から変わらなかった。何かを素直に受け止めるには時間がかかるし、信じることには倍の勇気が要る。でも今、目の前のこの人は、ただ彼のことを信じようとしてくれている。
「なあ結奈。おまえ、よくそんなに人のために動けるな」
「ううん。動けてるっていうより、動いちゃうって感じかな。誰かのことを考えると、止まってられないの。……それにね、大樹くんが思ってるより、わたし、自分勝手なんだよ?」
「そうは見えねぇけどな」
「だってさ、自分の気持ちを伝えたいって思うの、自己満足かもしれないでしょ。でも、それでも伝えたい。わたしのことを、誰かに見ていてほしいの」
大樹は驚いたように彼女の顔を見つめた。言葉の一つひとつが、結奈の内側に秘めた感情の深さを物語っているようだった。思いやりだけでなく、孤独も、願望も、彼女は抱えていた。その奥底に、静寂の中で燃えるような情熱があった。
「……自分勝手か。俺のほうが、よっぽどだな。金のことばっか考えて、周りに気も遣わず、目の前のことだけ見て動いて……」
「でも、それって悪いことじゃないと思うよ。細やかな配慮って、たぶん、あなたみたいにちゃんと現実を見てる人だからできることだよ」
「……褒めてんのか?」
「うん。真面目に」
まっすぐに向けられたその目に、大樹は顔をそらした。どうしても、まっすぐ見返す勇気が出なかった。心が和む。けれど同時に、怖くもある。このまま踏み込んだら、きっと戻れなくなる。だが、戻れなくなることを、ほんの少しだけ望んでいる自分にも気づいてしまう。
文化会館の横手には、古い桜の木があった。もう春は終わっていたが、枝の先に残っていたわずかな花びらが風に揺れて、二人の足元へと舞い落ちた。
大樹はゆっくりと口を開いた。
「……俺さ、今まで“愛の誓い”とか、“運命”とか、そういうの鼻で笑ってた。ロマンチストなこと言う奴、正直信用してなかった。でも……今日、お前の朗読聞いててさ……少しだけ、信じてみようって思ったんだよ」
結奈は、ほっとしたように笑った。
「ありがとう。それ、すごく嬉しい」
「ただ……まだ不安なんだ。お前の優しさに、俺が甘えすぎるんじゃねぇかって」
「いいよ。甘えても」
「ほんとかよ」
「うん。だって、あなたが本当に困ってる時に、わたしが何もできなかったほうが、よっぽど悲しい」
その言葉に、大樹は深く息を吐いた。ため息ではなかった。張り詰めていた空気が少しだけほぐれて、心がすこし軽くなる、そんな音だった。
「……じゃあさ、今度の日曜、空けとけよ」
「え?」
「休み取った。いろいろ見直してみたら、案外余裕あったから。……お前の言う“きれいな空”、一緒に見に行こうぜ」
「うんっ!」
彼女の声は、さっきの舞台の台詞よりずっと生き生きしていた。その目がきらきらと輝いて、大樹の世界に彩りを添えた。沈んでいた心が、少しずつ浮かび上がってくる。まるで重力を忘れたかのように。
―――ふと顔を上げた瞬間、空がとても美しい。
それは集中していた時にだけ訪れる、ご褒美のような瞬間。けれど今、大樹は初めて知った。“誰かと一緒にいることでしか見えない空”が、世の中には確かに存在するということを。
彼はその場で、結奈の手を取った。誰にも見られていないのを確認するようにそっと、でも確かに。手のひらから伝わる熱に、結奈はゆっくりと目を閉じた。握られたその手が、今この瞬間だけは、世界でいちばん安全な場所に感じられた。
お金より大事なものなんてないと思っていた。けれど、彼女の前ではその価値観さえも、静かに塗り替えられていく。ロマンチストなんて馬鹿にしていたのに、自分がその中心に立たされている。
「……やばいな。なんか、また空、見たくなってきた」
「今からでも、見に行く?」
「いや、もうちょい、この感じ、噛みしめたい」
「じゃあ、隣にいるよ。ずっと」
静かに流れる時間の中で、ふたりはそのまま、寄り添うように柏原駅へ向かった。通り過ぎる人々の中に、誰ひとりとして気づく者はいなかったが、彼らにとってこの日こそが――“静寂の中で交わした愛の誓い”そのものだった。
(chap179 完)