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第176章 愛を信じるとき

 池田市、朝の池田温泉。山々の麓に佇むこの地に漂う湯気は、どこか神聖さすら感じさせる清らかな白で、まだ人の少ない露天風呂の縁には、湯の跳ねる音と静かな鳥のさえずりが染み込んでいた。光明は、ぬるめのお湯に身を沈め、目を閉じて静かに深呼吸を繰り返していた。周囲に合わせるのが得意で、目標に向けて冷静に計画を立てることを得意とする彼だが、その裏では、感情を表に出すことを極端に恐れていた。何かに心を強く動かされても、すぐに理屈で片付けてしまう。問題が起これば冷静に処理できるのに、人との関係では、感情の揺れそのものが“トラブル”のように感じられてしまうのだった。

「このまま、何も感じずに生きていけたら、どれだけ楽か…」

 そんなことを考えた直後に、自分の心の中にある“深い寂しさ”がむくりと起き上がる。その寂しさこそが、彼が“感情”を押し殺す最大の理由だった。感情を出せば、相手に伝わる。伝われば、応えてもらうことを期待してしまう。期待して、裏切られるのが怖い。それなら最初から、何も伝えないほうがずっと安全だった。

「…でも、それじゃずっと、空っぽのままだよな」

 小さな声が湯気の中で溶けるように消えた。湯の温かさは、体をほぐしても、心までは届いてくれない。そんなことを思っていると、突然「やっぱりいた」と背後から声が飛んできた。

「光明、こういうときって、絶対温泉だと思ったんだよね」

 タオルを頭にのせたまま笑って立っていたのは実莉だった。彼女は物事を冷静に判断し、行動に移す力を持ち、自分の強さを他者に伝えることを恐れない人物だった。その強さは押しつけがましくなく、むしろ“心を預けられる安心感”のようなものがあった。彼女がここに来たことで、場の空気が一気に変わるのを光明は感じた。

「…なんでここに?」

「昨日のあんたのメール、短すぎたもん。“ちょっと休む”だけじゃ、心配になって当然でしょ」

 光明は苦笑した。「お見通しってわけか」

「そりゃもう、あんたの“なんでもない”は大体“なんかある”だから」

 彼女は軽く笑って、隣の岩に腰かけ、足だけ湯に浸す。まだ濡れていないその足先が湯の温度に驚いたように小さく動くのを、光明はぼんやり眺めていた。

「俺さ、感情出すの、すごく苦手で」

「知ってるよ」

「…出したら、裏切られそうで怖くて」

「それも分かる。でも、それってさ、“愛されたい”って気持ちがあるからなんじゃない?」

 その言葉に、光明の胸がぴたりと止まったように感じた。愛されたい。そんな単語を、誰かから向けられたのはいつ以来だったろう。彼は、喉の奥で何かが詰まるような感覚を覚えた。

「俺は、ずっと…誰かを信じるより、失望しない方法を探してたのかもしれない。合理的な選択を繰り返して、心の揺れを切り捨ててきた」

「でも、心は揺れてる。今だって、そうじゃん」

「…そうだな」

「じゃあ、そろそろさ、信じてみてもいいんじゃない?」

「何を?」

「愛を」

 実莉の声は驚くほど静かだった。けれど、その響きには一切の迷いがなく、光明の内側をまっすぐ貫いた。信じる――それは、彼にとって最も難しい課題だった。けれどその瞬間、彼ははじめて、信じてみたいと思えた。彼女の言葉だけは、嘘じゃないと感じられたからだった。

「…もし、裏切られたら?」

「それでも、そのときまで本気で信じられたなら、絶対に後悔はしないよ」

「俺、怖がりなんだよ。誰にも言ったことないけど」

「うん。でもそれ、すっごく人間らしくて、私は好きだよ」

 光明の肩から、ようやく長い重しがふっと抜け落ちた気がした。言葉にしただけで、自分が少しだけ軽くなれた。感情を出すことは、壊れることじゃなかった。それは、誰かとの間に“橋”をかける行為だったのだ。

「実莉…ありがとな。俺、少しずつでいいから、信じてみようと思う」

「うん、まずは私のことからでいいよ。私は、光明の味方だから」

 朝の光が湯気を淡く照らし、ふたりの影が湯面に柔らかく映った。その静かな時間の中で、言葉の代わりに湯のぬくもりが、ふたりの距離をそっと縮めていった。

 愛を信じるとき。それは、心の扉を少しだけ開ける勇気をもった光明に訪れた、静かであたたかな始まりだった。

 終


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