第174章 夢のような時間
八尾市、八尾神社の境内には、夕方の静けさがしっとりと降りていた。参道の石畳に射す光は、木々の影を長く伸ばし、どこか幻想的な風景をつくり出している。あゆむは拝殿前の石段に腰を下ろし、境内を行き交う人々を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。彼はみんなと一緒にいることを好み、話し上手で、他者の成長を支援し、共に喜ぶことを心から大切にする。けれど、今日の彼はいつになく静かだった。
午前中に行われた地域の催しで、子どもたちと一緒に出し物を作り上げ、成功に導いた。拍手もあった、笑顔もあった。なのに、心の奥には小さな引っかかりが残っていた。「俺がいなかったら、どうなってたんだろう?」という問いが、何度も頭を巡る。他人と喜びを分かち合うことに喜びを感じるはずの自分が、なぜかそこに優越感や劣等感の気配を感じてしまったことに、どこか罪悪感のようなものすら覚えていた。
「もしかして…俺、誰かより上に立ちたかっただけなんじゃないか…」
自分が大切にしてきた“喜びを分かち合う”という信念が、どこかでひび割れているような感覚。人の成長を喜ぶという気持ちの裏に、ほんの少しの「自分が一番でいたい」という欲があったのではないかという疑念。それを否定できずにいる自分が、たまらなく歯がゆかった。
「考えすぎ。…でも、気づいてしまったことは、消せないんだよな」
そんな独り言を打ち消すように、背後から軽い足音が近づいてきた。
「やっぱりここにいた。探したんだから」
声をかけたのは優美だった。彼女は図々しいところがありながらも、好奇心旺盛で、どんなことでも柔軟に受け入れられる器の大きさがある。彼女の無遠慮なようで人懐っこい態度は、時に心の壁を易々と乗り越えてくる。あゆむは思わず笑ってしまった。
「探したって、俺がどこ行くかなんて、だいたい分かってたろ」
「まあね。迷ったふりしてただけ。寄り道したら神社の横にクレープ屋できてて、つい食べてきちゃった」
彼女はそう言って笑いながら、袋から一つクレープを取り出して手渡した。「一緒に食べる?」と、いつものように明るく言って。あゆむはありがたく受け取った。
「今日のイベント、大成功だったね。みんな、めちゃくちゃ楽しそうだったよ」
「そうだな。…ありがと、手伝ってくれて」
「でも、終わった後のあゆむ、ちょっとしんどそうだった。笑ってるのに、目が全然笑ってなかった」
彼女はさらりと、しかし核心を突くように言ってのけた。その言葉に、あゆむの胸が静かに疼いた。
「…優美ってさ、ほんと変わってるよな。空気は読めるのに、読まないで言うよな」
「ふふ。だって、読んでばかりいたら、自分の言葉なんてなくなっちゃうじゃん」
あゆむは目を伏せたまま、クレープを少しちぎって口に運んだ。甘さがじんわりと広がり、その味に、少しだけ自分の感情がほぐれていくのを感じた。
「俺さ…みんなと一緒に喜ぶって、ずっと信じてやってきたけど、今日、自分の中に“誰かより上に立ちたい”って気持ちがあったかもって思ったんだ」
「そう思えるのって、すごいことじゃない?」
「え?」
「だってさ、自分の中にそんな気持ちがあったことに気づいて、ちゃんと向き合おうとしてるってことでしょ?それって、あゆむが本気で“みんなと喜びたい”って思ってる証拠だよ」
「…そういうもんかね」
「そういうもんだよ。みんなそういう感情、持ってる。優越感も劣等感も。でも、それに振り回されずに、“それでも人の幸せを喜びたい”って思えるあゆむって、私はすごく素敵だと思うよ」
彼女の言葉は飾り気がなく、でも確かなぬくもりを持っていた。あゆむの心にあった濁りは、少しずつ透明になっていく。罪悪感ではなく、前に進むための気づきに変わっていく。
「ありがと、優美。お前、たまに本当にずるいくらいかっこいいよな」
「でしょ?でもあゆむの方がかっこいいよ」
「それ、図々しいな」
「だって私、図々しいんだから」
ふたりは顔を見合わせて笑った。クレープを頬張るその時間が、まるで時間の流れをゆっくりにしてくれているようだった。風が吹き抜け、八尾神社の木々がさわさわと鳴る。まるでこの瞬間を祝福してくれているかのように。
夢のような時間。それは、心の中の小さな葛藤すら、誰かと分かち合うことで優しく溶かされていく、そんな不思議で、かけがえのないひとときだった。
終