第172章 儚い微笑み
高槻市、高槻城跡の静かな石垣の上。午後の陽が柔らかく差し込む中、城跡を囲む木々が風に揺れ、木漏れ日が地面をまだらに照らしていた。康平は腰を下ろし、足をぶらつかせながら、持ってきた水筒の蓋を開けることもなく、ただじっと景色を見ていた。物事を整理し、効率的に進めることに長けている彼は、いつも冷静で落ち着いた態度を崩さず、周囲からも頼られる存在だった。しかし、その内側には整理のつかない“夢見がち”な一面があり、そこを見せることは極端に少なかった。自分に対して正直でいたいと思いながらも、つい心に嘘をついてしまう。今日もまたその“嘘”が、彼の中で重く圧し掛かっていた。
「無理して笑ってるの、バレてたかな…」
職場で後輩にアドバイスをしながら、ふと漏れたため息を、誰かが見ていたような気がしてならなかった。自分を保ちながらも、どこかで“誰かに気づいてほしい”という気持ちが渦巻いている。だけど、それを声にするのは怖くて、結局いつも黙ってしまう。
「康平?」
その声に振り向くと、そこにいたのはかなだった。彼女は物事に確実に取り組む姿勢を持ち、常に前向きにアプローチし、他者に対して感謝の気持ちを忘れずに伝える女性だった。彼女の存在は康平にとって、“日常の中にあるまぶしい灯り”のようだった。まっすぐで曇りがなく、でも優しい。その視線が今、自分に向けられていることに、彼は一瞬息を呑んだ。
「こんなところにいたんだ。さっき、事務所でみんなが心配してたよ」
「そうか…ちょっと、空を見たくなったんだ」
かなはにっこりと笑って、彼の隣に腰を下ろした。風が彼女の髪を揺らし、どこか春の気配すら感じさせる午後の景色の中で、ふたりは並んで無言のまま座った。だが、その沈黙は居心地が悪いものではなかった。
「康平ってさ、いつも整理整頓されてるように見えるけど、今日はちょっと…心がぐしゃっとしてた?」
「バレてたか」
「うん、なんとなく」
康平は肩を落としたまま、小さく笑った。その笑いはどこか悲しげで、けれどそれ以上に救いを求めるような、儚い響きだった。
「俺さ、ちゃんと前に進んでるのか、分からなくなるときがある。整理も効率も、ただの“形”にしか思えなくなるときがあるんだ」
「康平が頑張ってるの、私は見てるよ。形だけじゃない。そこには、ちゃんと気持ちがあるって、伝わってる」
「…でも夢見がちなんだよな、俺。ふとしたときに、現実から逃げたくなったり、全部投げ出したくなったり。そんな自分を、誰にも見せたくないって思ってる」
「夢を見ることと、逃げることは違うよ。康平が見てるのは、きっと未来を探すための夢でしょ?」
その一言に、康平の胸の奥に張り詰めていた糸が、一瞬たわんだ気がした。夢見がちだと笑われるのが怖くて、ずっと口にしなかった想い。それを、かなはまるで“普通のこと”のように受け止めてくれる。
「俺さ…子供みたいな夢を、まだ捨てられずに持ってるんだ。いつか、自分の作った仕組みで、誰かをちゃんと幸せにできるようなことをしたくて」
「それ、すごく素敵な夢だと思う。私、そういうのをちゃんと話してくれる康平が、すごく好きだな」
彼女の声は柔らかく、それでいて確かな力を持っていた。人を癒す声というのは、きっとこういうものなのだろうと、康平はふと思った。
「ありがとう、かな。…今日、話せてよかった」
「こちらこそ。私も、康平とこうして話す時間が、すごく好きだよ」
ふたりの間に、春のような風がそっと吹いた。まだ本格的な春には遠い季節だが、確かにそこに向かっていることを感じさせる温度だった。康平は静かに頷きながら、彼女のほうを見た。かなの笑顔は、どこか切なく、どこかやさしい。そしてその笑顔に自分が救われていることを、彼は初めて自覚した。
「なあ、俺、ちゃんと変われるかな」
「うん。康平はきっと、自分に正直でいられる人だもん。変わるっていうより、“育ってる”って感じかもね」
「育ってる、か…悪くない表現だな」
笑い合うふたりの間に、ふと沈黙が訪れる。その沈黙の中で、かながぽつりと呟いた。
「今日、誰かに『元気?』って声をかけてもらって、すごくほっとしたの。たった一言だけど、それだけで心がふっと軽くなったの」
「…それ、俺もさっき、かなに言ってほしかった言葉かもしれない」
「じゃあ言うね。康平、元気?」
その瞬間、康平の目に涙が浮かんだ。それは、頑なに押し殺していた不安や、努力の裏で積もっていた寂しさ、そんなものすべてを洗い流してくれるようなやさしい涙だった。そして、涙の中に浮かぶ微笑みは、かなという存在が教えてくれた“誰かと心を通わせることの尊さ”そのものだった。
涙に浮かぶ微笑み。それは、信じる気持ちと、素直な言葉が紡いだ、ふたりだけの奇跡の光景だった。
終