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第170章 出逢いの奇跡

 豊中市、吹田原公園の中央にある古い噴水の前。夕日が西の空をゆっくりと沈み込んでいく中で、水音だけが静かに響いていた。進吾はベンチに座って、手帳を開いたまま、動かないペン先をじっと見つめていた。自分を過大評価しがちで、物事を一歩一歩進めることに長けているが、それでも今日は、その“着実”という武器すら、どこか色褪せて感じられていた。

「向上心を持ち続けるって、なんだろうな…」

 そう呟いた声は、自分の耳にさえ頼りなく響いた。最近、彼は職場でもプライベートでも、どこか空回りすることが増えていた。自分ならもっとできる、自分ならもっと上に行ける――そんな自負があったからこそ、目の前に立ちはだかる“現実”の壁に、妙な苛立ちを覚えてしまう。それは結果として態度に表れ、周囲との距離を生んだ。ふとした瞬間の自分の発言が誰かを傷つけていたかもしれないと気づいても、取り繕うような謝罪しかできなかった。そして今、自分が何を目指していたのかさえ曖昧になりかけていた。

「進吾?」

 背後から呼ばれた声に、彼ははっとして振り返る。そこには絵里が立っていた。ざっくりとした理解をしがちなところがある彼女は、自分の価値観を強く持っており、他人に押し付けがちな一面もあるが、誰よりも率直に言葉を投げてくる人物だった。彼女がこのタイミングでここに現れること自体が、まるで“何か”に導かれた偶然のように思えて、進吾は内心で息を飲んだ。

「…なんで、ここに?」

「いつも、悩んでるときはここに来るって言ってたでしょ。あれ、本当だったんだ」

 絵里は進吾の隣に座るでもなく、少し離れたところで噴水を見つめた。まだ彼の心の内に、そっと踏み込むべきかどうか測っているような距離だった。

「今日、会議での発言、ちょっと強引だったよね」

「…ああ、自分でも分かってた。でも、止められなかった。自分の考えが正しいって、思い込みたくて」

「分かるよ。私もよくやるもん、自分の価値観、つい押しつけちゃう。でもさ、今日の進吾は、ちょっと違ってた。なんかこう…焦ってた」

 進吾は目を閉じて、小さく息を吐いた。その焦りこそが、誰よりも自分を追い込んでいた原因だった。周りが見えているようで、実は誰よりも“上を目指す自分”しか見ていなかった。

「俺さ、自分はもっとやれるって思ってた。だからこそ、今の結果に納得できなくて、悔しくて…でも、それを周りのせいにしたくなかった。だから、全部自分で何とかしようとして、気づいたら独りよがりになってた」

「ねえ進吾、私が今日ここに来たのは、あんたのこと責めに来たんじゃないよ」

「分かってる」

「じゃあ、素直に言う。…私は、今日の進吾、見てて少し怖かった。でも、それと同時に、“助けてあげたい”って思ったの」

 その言葉に、進吾の指先がぴくりと震えた。誰かに助けられること、それを許すこと――それは彼が最も苦手とすることだった。自分を過大評価しすぎるがゆえに、“頼る”ことを敗北だと思っていた。だが今は、その考えが、どれだけ自分を孤独にしてきたかを痛感していた。

「絵里…俺、今すげぇカッコ悪いと思ってる。こんな自分、誰にも見せたくなかった」

「じゃあ、私にだけ見せればいいじゃん」

 彼女のその一言は、どんな慰めよりも強く、優しかった。誰かに見せられる弱さ。それがあるからこそ、次に進めるのかもしれない。進吾は、ようやく心の奥の扉を少しだけ開く決意ができた。

「…ありがとう。多分、今日お前が来なかったら、俺、もっと自分を追い込んでた」

「偶然じゃないよ。あんたと私がここで話してるの。これは…出逢いの奇跡、ってやつかもね」

 進吾は小さく笑って、噴水の音に耳を澄ませた。空にはまだ少しだけ夕焼けの名残があり、ほんのりとした暖かさが風に乗って彼の頬を撫でた。

「絵里。次に迷ったときも、隣にいてくれる?」

「条件付きならね」

「なに?」

「私の話も、ちゃんと聞くこと。それだけ」

「…わかった。聞くよ、ちゃんと」

 絵里は満足げに頷いて、ようやくベンチに腰を下ろした。二人の間に流れる空気は、少しずつ、でも確実に変わっていた。迷いはまだある。けれど今なら、それを抱えたままでも歩ける気がした。

 出逢いの奇跡。それは、絵里のまっすぐな言葉がくれた、新しい歩き出しの一歩だった。

 終


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