表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
169/205

第169章 心の迷い道

 岸和田市、だんじり祭りの余韻がまだ街に残る初冬の午後。石畳の広場には幟がいくつかはためき、観光客の姿もまばらになった時間帯に、海人は岸和田城の裏庭の縁台に腰掛けていた。彼の表情はいつも通り穏やかで、感情をほとんど顔に出さない。しかし内心では、小さな焦りが静かに、しかし確実に積もっていた。思いやりがあり、思慮深い性格でありながら、表情に出さずにいることが多いため、時として誤解を生む。その日も、同僚から「何を考えているのか分からない」と距離を取られた一言が、胸の奥にひっかかっていた。

「俺は、誰かとちゃんと関わっていけてるんだろうか…」

 独り言のように零れた声は、冷えた風にすぐかき消された。岸和田城の石垣に射す西日が白く、どこか寂しく、心を締め付ける。考えすぎずに振る舞えればいいのに。だが海人は、誰かと接するたび、相手の言葉の裏を読みすぎて、自分の本音を言うタイミングをいつも逃してしまう。人に優しくあろうとするあまり、いつも“読まれる側”ではなく“読む側”に徹してしまう。それが今、少しだけ苦しくなっていた。

「ねえ、海人」

 ふいに声がして振り返ると、そこにいたのは颯夏だった。好奇心旺盛で、わがままにも見えるが、策略を考えるのが得意で、人と関わる中で自分の立ち位置を的確に見定めるタイプの彼女は、いつも飄々としているが、核心を突くような一言を放つことがある。今日もその眼差しには、探るような鋭さと、同時にどこか包み込むような柔らかさがあった。

「…どうしてここに?」

「さっき、話しかけたときの返事、めっちゃ淡白だったから。あれ、何か考えこんでるときの海人のやつだと思って」

 海人は肩をすくめたが、否定しなかった。彼女は彼のそういう無言の部分も読み取ってしまう数少ない人間だった。

「俺、感情を表に出せないんだと思う。出さないんじゃなくて、どう出せばいいか分からないっていうか…」

「うん、そうだね。それは海人のクセだよ。でもそれで、困ってる人が出てきてるってこと?」

「…ああ。今日、同僚に“何を考えてるか分からない”って言われた」

「そりゃあ…言われるかもね。でも、それってさ、“知りたい”ってことじゃない?」

 海人はその言葉に少し目を見開いた。自分の内に閉じこもっていた解釈が、少しだけ違った角度で捉えられた瞬間だった。

「知りたい…か」

「うん。無関心だったら、そんなことわざわざ言わないよ。関わりたいから、分かりたいから、そう言ったんだと思う」

 颯夏は縁台の横に腰を下ろし、地面に落ちた紅葉の葉を指で拾った。そして、何気ない調子で続けた。

「海人ってさ、静かだけど、ほんとは色んなこと考えてるの、私知ってるよ。だからこそ、ちょっとくらい自分の気持ちを伝えてもバチは当たらないと思うけどな」

「俺の考えてることなんて、伝えてどうなるんだって、どこかで思ってた。けど、それが相手との距離を縮める“鍵”になるのかもしれないな」

「うん。鍵って、使わなきゃただの鉄くずだから」

 その比喩に海人は思わず笑った。久しぶりに自然に笑えた気がした。颯夏の言葉には、時折ズバリと刺さる鋭さがあるけれど、その痛みの中に妙な安心感がある。彼女はいつだって核心を突くが、突いたあとにちゃんと寄り添ってくれる。

「…でも、俺は怖いんだよ。感情を出して、それを否定されたらって思うと」

「私だって怖いよ? でもさ、だからこそ、誰かと目が合って笑い合えたときって、ほんとに嬉しいじゃん」

「…ああ、そうだな」

 彼女が拾った紅葉の葉を、海人の膝の上にそっと置いた。その鮮やかな赤は、冷えた空気の中で妙に温かく見えた。

「ねえ海人、今日は誰かと話したくなったとき、たまたま私がいただけだと思ってるかもしれないけど、私はちゃんと、君のことを気にしてここに来たんだよ」

「それが、…嬉しい」

 海人の口から出たその言葉は、驚くほど素直だった。彼の中で、長く渦巻いていた“表情を見せることへの恐れ”が、少しだけほどけた瞬間だった。風が吹き抜ける中、ふたりは並んで紅葉を見つめていた。颯夏がふと笑った。

「さっきの“何を考えてるか分からない”って言葉、私も昔、一度だけ海人に思ったことあったんだよ」

「え? 本当に?」

「うん。でも今は、知りたいって思うだけ。だって、知ってみたら、たぶん面白いと思うから」

 海人は、静かに目を細めた。心の中の迷い道。その先にあるのが誰かの“知りたい”という想いなら、自分も少しずつ進んでみてもいいのかもしれない。誰かの目に、自分の感情が映る瞬間を、信じてみてもいいのかもしれない。

 心の迷い道。それは、颯夏の言葉が照らしてくれた、優しい出口の光だった。

 終


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ