第168章 胸の奥に秘めた真実
神戸市、ポートタワーを見上げるベンチに健斗は一人で座っていた。神戸ハーバーランドの夜景は、港の静けさと背中合わせで煌々と輝いている。観光客の笑い声と観覧車の回転音が遠くに響く中、彼の目は塔の灯りをぼんやりと追っていた。気分次第で動く自分に、今夜は少しだけ嫌気が差していた。目標が定まらず、何をしたいのかもよくわからない。そもそも、何かを成し遂げる気が自分に本当にあるのかさえ、自信が持てない。そして、それを誰にも言えず、ただ黙って笑って過ごす自分が、無性に情けなく思えた。
「目の前のことすらちゃんとできてないのに、何を期待されてんだ、俺…」
そんな健斗の胸の内にあったのは、途方に暮れるような気持ちだった。期待されると背負ってしまい、誰かに頼られると苦しくなって、けれどその期待を拒む勇気もない。ただ毎日、目の前の“やるべきこと”をやっているふりをしながら、心の中では何も響かないまま日が過ぎていく。
「健斗?」
その声がしたとき、彼は無意識に立ち上がりかけたが、動きを止めた。そこにいたのは梨央だった。彼女は他者の違いを受け入れ、健康的な生活を心がけ、どちらかといえば控えめな物腰の中に“やさしさを守る強さ”を持っている女性だ。いつもは誰かの背中をそっと支える役だった彼女が、今はまっすぐこちらに向かって歩いてきていた。
「どうしてここに…」
「昼のミーティングのとき、健斗の返事、いつもよりちょっと小さかったから。分かりやすかったよ、元気ないの」
梨央は、にこやかでもなければ無理に励ますような様子でもなく、ただ自然に隣へ座った。そしてポートタワーを見上げると、ふうっとため息をついた。
「きれいだね。…でも、なんでか分からないけど、ああいう光って、私にはちょっと寂しく見えるときがあるんだ」
健斗は何も言わなかった。ただその言葉に、思わず頷いてしまいそうになる自分がいた。
「俺、最近ずっと、考えてばっかでさ。何かやらなきゃって思ってるけど、やりたいことがあるわけでもなくて。周りがどんどん前に進んでるように見えるのに、俺は…ただ立ち止まってる気がする」
「健斗がそんなふうに思ってるの、ちょっと意外だった。でも、…それってたぶん、ちゃんと“考えてる”証拠なんだと思う」
梨央の声は静かで優しかったが、どこかしっかりと芯が通っていた。自分をただ肯定するんじゃなくて、寄り添いながらも現実を見ている。そんなふうに話す彼女の言葉に、健斗は心が少しずつ解けていくのを感じた。
「気分次第で何もかも決めてきたような気がして、だから今も、目標が定まらない。夢もない。これでいいのかなって…」
「誰にだって、そういうときはあるよ。私だって、自分の考えが正しいかどうか、分からないまま動いてることばっかり。でもね、ひとつだけ分かってるのは、立ち止まるのって、悪いことじゃないってこと」
「でも…」
「ちゃんと、今の自分を見てるじゃん。迷ってる自分をごまかさずに。私は、それってすごいことだと思うよ」
健斗は少しだけ目を伏せた。そして心の奥にしまい込んでいた“本当は誰かに言いたかったけど言えなかった”思いを、やっと少しだけ吐き出せた気がした。
「梨央は、いつもそうやって、自然に人のこと包み込んでくれるよな。…それ、羨ましいって思う」
「ふふ、よく言われる。でも、私だってしんどいときはあるよ。でもね、誰かに“いてくれてありがとう”って言われたら、その一言だけで、また頑張れる」
「俺も、言いたいよ。誰かに“ありがとう”って、心から。でもそれが、なかなか出てこないんだ」
「じゃあ、練習してみる?」
「…今?」
「うん。私にでもいい。『ありがとう』って、言ってみて」
健斗は少し考えてから、小さく息を吸い込み、照れ隠しのように笑った。
「ありがとう。来てくれて、話してくれて…救われた」
梨央の目がふわっと細くなり、まるで夜の海を照らす灯台のような、安心する表情を浮かべた。
「どういたしまして」
二人は言葉を交わすことをやめ、しばらくの間、ただ黙って夜景を眺めた。風が少し強くなり、川面が細かく波打つ。それでも、その場にある空気は不思議と穏やかだった。真実を口に出すのは怖いけれど、隠しておくことのほうがずっと苦しい。だからこそ、こうして少しずつでも分かち合える相手がいるということが、何よりの救いだった。
胸の奥に秘めた真実。それは、梨央の静かな眼差しの中で、初めて言葉になった感情だった。
終