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第133章 琵琶湖の保証

石川県の穏やかな朝。空は淡く曇り、かすかな海風が兼六園の苔むす石畳をすり抜けていく。陸⽃は白山の登山口でザックのベルトを締めながら、一度深く息を吸い込んだ。その姿勢には揺るぎがなかった。どんな天候にも、どんな状況にも動じない──彼の背筋には、そうした信念が骨として通っていた。ただ、彼はそれを声にすることも、誇示することもなかった。ただ、黙々と目標に向かって、一貫した足取りで歩みを進める。それが彼の流儀だった。


「……あ、ちょっと待って。カメラ、レンズキャップ……あれ、どこいったっけ」


背後から聞こえたその声に、陸⽃は肩越しに振り返る。そこには、美沙子がいた。リュックの中を必死に探るその手は慌ただしく、だがどこかリズムがあり、彼女なりのペースで秩序を持って動いていた。


「焦らなくていいよ」


「うん、ありがとう。でも……あった!やっぱりポケットだった〜」


ちょっとしたことにも大げさに反応してしまう臆病さと、しかしそれ以上に仲間を大切にする気持ちを隠し持つ彼女は、陸⽃にとってとても面白い存在だった。面白いというよりも──心地いいのかもしれない。どこか自分とは違うリズムで生きている。だけど、それを否定せず、尊重できる自分がいることにも気づく。


ふたりの共通の趣味は、古地図収集と旅先のカフェめぐり。そんな中で、「琵琶湖を囲む歴史の旅に出よう」という話が持ち上がったのは、数ヶ月前の夜、金沢の古本屋で手にした明治時代の観光案内パンフレットがきっかけだった。


その中に「大津市立歴史博物館」の名を見つけた時、美沙子がぽつりと呟いた。


「……保証、なんだよね。そういうのが、きっと欲しいんだと思う」


「保証?」


「うん。過去がこうだったって、確かめられる場所。知らない土地でも、『ここに来た意味がある』って思える、何かの証明みたいな」


陸⽃はそのとき、黙ってうなずいた。理解するより、受け止めることを選んだのだ。彼は人の立場を尊重する。それが彼の人間関係における「背骨」だった。


こうして、二人は石川から滋賀へと向かった。北陸本線で米原を経由し、大津へ。目指すは大津市立歴史博物館。だが旅の道中、ふたりにはある目的地がもう一つあった。──「初めて行くカフェ」。


美沙子がどうしても気になっていた、あるカフェ。駅から少し外れた住宅街の中にある古民家を改装したその場所は、「琵琶湖ベース」という名で、観光地とは思えぬ落ち着いた空気を湛えていた。


入口の木製扉を押すと、小さなベルがチリンと鳴った。


「……お久しぶりです」


レジの奥から、若い女性店員がにこやかに微笑んで、ふたりに声をかけた。陸⽃が戸惑う表情を見せると、美沙子がぽかんとしたまま、答えた。


「え……あの、私たち……初めて来た、と思うんですけど……?」


店員は一瞬だけ、目を細めてから微笑んだ。


「そうでしたか。でも、なんだか懐かしい雰囲気だったから、つい……ごめんなさい」


その場の空気が、ふわっとほどけたようだった。まるで、見知らぬ場所に訪れたはずなのに「何かに保証されている」──そんな不思議な瞬間。


陸⽃はその場で、しばらく無言で過ごした。窓辺から見える琵琶湖の湖面は静かで、しかしどこか力強く、彼の胸の奥に語りかけてくるものがあった。「この瞬間も、この道も、間違ってない」と。



カフェ「琵琶湖ベース」で過ごす時間は、時計の針の進みを忘れるほどに緩やかだった。木のぬくもりがしっとりと手に馴染むテーブルに、珈琲の香ばしい香りがやさしく立ち昇る。窓の外には、五月の琵琶湖が淡くきらめき、光と水の境目が揺れていた。


美沙子は、目の前のカップに顔を近づけ、そっと両手で包み込むように持ち上げた。その仕草には彼女の臆病な性格がにじんでいた。誰かの空気を乱さぬよう、ひとつひとつを丁寧に確かめながら進む──そんな生き方。しかし、それは決して弱さではないと陸⽃は思っていた。


「ここ……落ち着くね」


「そうだね。初めて来たはずなのに、なぜか懐かしい」


「もしかして、前に似た店に来たことがあったのかな。記憶って、ほら、意外といい加減だし」


陸⽃は首を振った。「いや。多分、それだけじゃない気がする。あの店員の『お久しぶりです』って声が……本当に、どこかにあった気がした」


美沙子は笑った。「それ、スピリチュアルに足突っ込んでない?」


「かもしれない。でも、悪くない」


互いに冗談のように交わしつつも、どこか本音を隠していない時間。会話の流れの中で、ふと美沙子が呟いた。


「ねぇ、陸⽃。私、ずっと怖かったんだ。ちゃんと続けられるかなって」


「何を?」


「こうやって、人と一緒に旅すること。誰かと並んで歩くこと。……自分のペースを崩したら、置いてかれる気がしてさ」


陸⽃は黙っていた。でも、黙っているのは否定でも拒絶でもなかった。彼は、ただ真っすぐに彼女の言葉を受け止めていた。


「でも、陸⽃ってさ、ちゃんと私のテンポ、待ってくれるじゃん。……それが、嬉しいの。ありがたくて、でもちょっと怖くて」


「怖い?」


「うん。……慣れたら、もっと手放せなくなりそうで」


言葉が沈黙に溶けていく中で、陸⽃はカップを置き、ゆっくりと答えた。


「それでも、俺は君のテンポが好きだよ。自分のペースで進めるって、実はすごく難しいことだ。多くの人は、周りの流れに飲まれる。でも君は、ちゃんと自分で選んで歩いてる」


美沙子は目を見開いた。ほんの数秒のあと、ゆっくりと目を伏せ、笑った。


「……ありがとう。ちょっと保証された気がした」


「保証?」


「うん。私って、自分に自信なくて、なにかしら保証が欲しいんだよ。誰かが『それでいいよ』って言ってくれるの。……陸⽃が言ってくれると、本物みたいに聞こえる」


「保証っていうのは、多分、誰かからもらうもんじゃなくて、自分の選んだ道を肯定してくれる何か──その一瞬の空気なんじゃないかな」


「それって、カフェの店員さんみたいな?」


「ああ。『お久しぶりです』って、何気ない言葉が保証になるんだと思う。どこかで誰かに覚えられてる。そこにいたって証拠」


その言葉に、美沙子は静かにうなずいた。そして、琵琶湖の湖面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「……じゃあ、行こうか。大津市立歴史博物館へ。私のなかの、過去の保証を探しに」


「うん」


歩き出したふたりの背中は、どこか似ていた。リズムは違うけれど、向かう先は同じ。ひとつの目的に向かって、一貫した想いで繋がっている。白い道に落ちるふたりの影が、並んで、そして少しずつ重なっていった。


──終──

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