第一〇九章「君を追いかける影」
東久留米駅前は、夕暮れを過ぎたばかりの時間で、空には淡い群青が広がっていた。駅ビルの明かりが一つ、また一つと灯り、行き交う人々の足取りも徐々に速くなっていく中、周平は駅近くのベンチに腰を下ろしていた。手に握った紙コップの温もりが、かじかむ指先を少しだけ和らげてくれる。
彼はどちらかといえば悲観的な性格で、何かを始めるときにも、まず「失敗したらどうしよう」と考えてしまう。それでも、努力の過程を何よりも大切にしてきたし、少しでも周囲に前向きな影響を与えられるよう、自分なりに歩みを続けてきた。
今日、周平が待っているのは、美桜子だった。彼女は、人との調和を得意とし、スポーツマンシップに富んだ姿勢を持ち、そして慎み深く、言葉よりも行動で相手を支えることを選ぶタイプだった。ふたりは、何度もすれ違い、何度も距離を測りながら、今日という日を迎えていた。
「……遅くなって、ごめんね」
その声に振り返ると、美桜子が立っていた。柔らかな紺色のニットにグレーのロングコート、マフラーの中から少しだけ見える口元が、静かに笑っていた。
「ううん。俺も、今来たところ」
「それ、また嘘でしょう。寒そうにしてた」
周平はバツが悪そうに笑い、彼女の隣に少しだけ詰めて座った。二人の肩が触れそうな距離に近づいた瞬間、静かだった風が少しだけ強くなり、木々の葉を揺らした。
「ここ、前にも来たよね。あのときも、こんな感じの夕方だった」
「うん……君の後ろ姿を見て、“君を追いかけてる”って感じた」
「え?」
「目の前にいるのに、追いつけないって思ったんだ。君はいつも笑ってて、明るくて、みんなに囲まれてて。俺はそれを遠くから見てるだけだった」
美桜子は、そっとまぶたを閉じる。
「……でも、私も同じだったよ。あなたがひとりで努力してる背中を見て、何度も“追いかけたくなる”って思ってた。だけど怖かったの。“近づいたら壊れそう”って」
「俺が壊れてるように見えた?」
「ううん、繊細に見えた。だから、手を伸ばしてもいいのか迷ってた。でも、今は違う」
周平は、美桜子の横顔を見た。その穏やかなまなざしが、自分を責めるでもなく、許すでもなく、ただ“受け入れてくれている”ことが、痛いほど伝わってくる。
「俺、努力してる自分しか価値がないって、どこかで思ってた。でも最近、努力を見てくれる誰かがいるだけで、その意味が何倍にもなるんだって気づいた」
「私も。誰かの影を追いかけるんじゃなくて、自分の足で隣に並んで歩くこと。それができる関係って、いいなって」
駅前のロータリーのスピーカーから、何気ないアナウンスが流れる。その声の向こう側に、小さな子どもの笑い声が混じっていた。どこかの家族が「今日は何しようか?」と楽しそうに話しているのが聞こえた瞬間、周平の胸にふっと温かさが灯った。
「……今の声、なんかいいね」
「うん。些細な言葉なのに、こんなにあたたかい」
「俺たちも、こんなふうに自然に言い合えるようになりたい。“今日は何しようか?”って」
「じゃあ、まずは今夜。“何しようか?”」
その言葉に、周平は一瞬驚きながらも、すぐに答えた。
「星を見に行こう。少し歩けば、灯りの少ない公園がある。きっと、君の影も、俺の影も、月明かりに浮かんでる」
ふたりは立ち上がり、並んで歩き出した。何も言わなくても、手の甲がかすかに触れ合うたびに、お互いの存在が確かにそこにあることを実感していた。
——君を追いかける影。
それは、孤独な背中を追いかけていたふたりが、“隣で歩む”ことを選び直した夜。もう誰も、誰かの後ろを見つめてはいなかった。
(第一〇九章 完)