第一〇六章「運命が導いた一瞬」
狛江市・狛江駅周辺。冬の夜風がアーケードを吹き抜け、人々がコートの襟を立てながら足早に歩いていく。駅前広場には、小さなイルミネーションが飾られ、控えめな電飾が優しく揺れていた。
篤史は、その一角に立っていた。感情的になりやすい自分を律するように、冷えた手をポケットに突っ込んだまま、じっと待っている。公正さを何よりも重んじる性格だが、一貫して問題に取り組む姿勢が時に感情を先走らせてしまうことがある。今日はそんな自分を見つめ直すために、彼女を呼び出した。
「……篤史?」
少し遅れて現れたのは、里香だった。黒のダッフルコートにマフラーを巻き、彼を見つけて小さく手を振る。里香は、自分の目標に対して真摯に取り組む人で、困難な状況でも前を向く強さを持っている。その一方で、問題が発生すると深く考え込みすぎてしまう癖があった。
「待たせた?」
「いや、俺もさっき着いたとこ」
「ふふ、嘘つき。寒そうにしてたよ」
篤史は少しバツが悪そうに笑い、駅前広場のベンチを指さした。
「座ろうか」
ふたりはベンチに腰を下ろし、冷たい空気の中で互いの存在を感じ取っていた。
「……今日は、どうして会おうって?」
「俺さ、この前、会社で感情的になってしまってさ。部下がミスをしたときに、ちゃんと話を聞かずに怒鳴ってしまったんだ。それがどうしても引っかかってて」
里香は黙って聞いている。その表情は、篤史の話を真剣に受け止めようとしているのが伝わってきた。
「その後、冷静になって考えたんだ。あのとき、何が正しかったのかって。でも、答えが出ない。俺ってさ、公正でいたいって思ってるのに、感情が先に出てしまう。……矛盾してるよな」
「篤史は、いつも“正しくありたい”って思う人だから、そうやって悩むんだよね。でも、感情があるからこそ、本当の意味で誰かを守ろうとしてるんじゃないかな?」
篤史はその言葉にハッとした。
「守ろうと、してた?」
「そう。私も、すぐに解決策を見つけようとして、相手の気持ちを置き去りにしがち。でも、篤史の怒りには、“誰かを守りたい”って気持ちが込められてると思う。だからこそ、感情があふれるんだよ」
「……そうなのかな」
里香は、小さな紙袋を差し出した。
「これ、クッキー作ってきたの。ちょっと形が崩れちゃったけど……味はたぶん大丈夫」
「お前、こういうの苦手だったろ?」
「うん。でも、頑張って作ってみたの。なんか、篤史に食べてもらいたくて」
袋の中のクッキーを一口かじった篤史は、素直に「うまい」と笑った。里香もほっとしたように笑顔を見せる。
「篤史、私も悩んでたんだ。“真面目すぎる”って言われることがあって、どうやってバランスを取ればいいか分からなかった。でも、あなたがいると、少しだけ自分を許せる気がする」
「俺もだよ。お前といると、感情的になる自分を否定しなくていいって思える」
ふいに、駅前のイルミネーションが一段と輝きを増した。二人の影が淡い光の中で重なり合う。篤史は意を決して、手を伸ばした。
「……ありがとう、里香。俺、これからも自分の感情と向き合っていく。でも、一人じゃ難しいときは、そばにいてくれないか?」
「もちろん。だって、篤史が頑張ってるの、ずっと見てきたから」
ふたりの手が重なり、冷たさが少しずつ和らいでいく。駅のアナウンスが響き、人々のざわめきが再び動き出す中で、ふたりの時間だけが、確かにそこに流れていた。
——運命が導いた一瞬。
それは、不器用なふたりが自分の感情を認め合い、“一緒に歩く”決意を固めた、特別な瞬間だった。
(第一〇六章 完)