第一〇四章「初めて交わした視線」
国立市・大学通り。冬の柔らかな陽射しが街路樹の間を通り抜け、アスファルトの上にまだらな影を落としていた。風は冷たいが、歩くたびに頬を撫でる空気には、どこか新しい季節の予感が漂っている。駅前からまっすぐ伸びるその道を、航はゆっくりと歩いていた。ポケットには、くしゃくしゃになったメモと、小さなチョコレートが入っている。
彼は、状況を改善するアイデアを出すのが得意で、周囲への感謝の気持ちを決して忘れず、何事にも前向きに取り組む性格だった。成果を上げるために努力を惜しまず、けれど時には、自分の理想にこだわりすぎて、目の前にある“小さな気持ち”を見逃してしまうこともあった。
今日は、芽衣とこの道を歩くために約束をした。それはただの待ち合わせではなかった。彼にとっては“過去”と“今”をつなぐ、大切な確認の時間だった。
「待った?」
芽衣は、大学通りの街角に立っていた。ベージュのコートのポケットに両手を入れ、落ち着いた表情を浮かべている。彼女は、感受性が高く、時間に几帳面で、何よりも“直感的に動く”ことに長けた女性だ。今日も、そうやって“ここがふたりの場所になる”と信じて立っていたのだろう。
「いや、ちょうど今着いたとこ」
「またそれ。うそが下手なんだから」
「……バレたか」
ふたりは並んで歩き出した。大学通りの並木道を歩く人々の合間をぬって、自然と歩幅がそろう。沈黙の中にも、確かに心地よいリズムがあった。
「この道、懐かしいね。大学の頃、ここを何度も通ったのに、そのときはまだ……私たち、ただのすれ違いだったんだよね」
「うん。思い返せば、同じ場所にいたのに、お互いの存在に気づかなかった」
「でも、不思議だよね。“初めて交わした視線”って、今でも鮮明に覚えてる」
「あの日、あの図書館で、君がふと顔を上げた瞬間だった。目が合って、なぜかそのまま視線を外せなかった」
「こっちだってそうだよ。あなたの視線の奥に、静かに燃える灯みたいなものを感じた。それが何なのか、あのときは分からなかったけど……」
「たぶん、俺も君に気づいてもらいたかったんだと思う」
ふたりは立ち止まり、歩道の脇にあるベンチに腰を下ろした。目の前をゆっくりと通り過ぎるバス、遠くで響く子どもたちの笑い声。冬の午後の国立には、どこか詩のような穏やかさがあった。
「芽衣。今日はどうしても伝えたいことがある」
「……なに?」
「今まで、俺は“正解”を求めすぎてた。誰かに感謝することはできた。でも、“自分の気持ちに素直になること”を、どこか後回しにしてた気がする」
「うん、なんとなく分かる」
「でも、君といるときだけは違った。君の直感的な言葉や行動が、いつも俺を正しい方向に導いてくれた。今日、それをちゃんと伝えたかった」
芽衣は、ゆっくりと彼を見た。その視線は、まさに“初めて交わした視線”のときのように、まっすぐだった。
「私も、あなたと話すと落ち着くの。“安心する”って、こういうことなんだって、あなたと出会って初めて知った気がする」
「……ありがとう」
航はポケットから小さなチョコレートを取り出し、芽衣に差し出した。
「なにこれ?」
「特に意味はないけど、今日という日を甘くしたかった。君といる時間が、ちょっと特別に感じたから」
芽衣は照れたように微笑み、そのチョコを受け取った。
「じゃあ、来年の冬も、ここで一緒に歩こうか」
「うん。そのときはもっと、自然に手をつなげたらいいな」
「……今つないでもいいよ?」
航は少し驚きながらも、その手を優しく包み込んだ。
——初めて交わした視線。
それは、すれ違いの中で確かに繋がった“気持ちの始まり”だった。何気ない一瞬が、永遠の記憶へと変わる――そんな時間をふたりは、国立の風の中で確かに共有していた。
(第一〇四章 完)