第一〇二章「季節の風」
東村山市駅前、夕方五時の風は冷たく、冬の匂いを纏っていた。空には淡く残った夕焼けが漂い、人々はマフラーを巻いて足早に帰路を急ぐ。駅のロータリーから少し離れたカフェのテラス席に、広志はひとり腰掛けていた。熱いコーヒーの湯気が眼鏡を曇らせ、指先は少しだけ震えている。
力を合わせて問題を解決するのが得意な広志は、常に周囲のことを考えながら動いてきた。情熱を絶やさず、冒険心を持って、何事にも挑む。だがその一方で、焦りやすく、時には物事を急ぎすぎてしまう癖があった。
「お待たせ」
柔らかな声と共に現れたのは、美麗だった。ココア色のコートに、揺れるイヤリング。彼女は、思い込みを捨てて柔軟に考えることができ、何かを共に成し遂げることに大きな価値を見出す人だ。
「寒いのに、テラスなんて珍しいね」
「うん……なんとなく、外の風を感じたくて」
「……“季節の風”、だね」
美麗のその言葉に、広志は少し驚いて顔を上げた。
「そう。まさにその言葉、俺の中にずっとあった気がする」
「あなたって、いつも何かを感じ取って動いてる。けど、それが焦りになって、自分を追い込むこともあるよね」
「……図星だな」
「でも、それがあなたの魅力だってことも、ちゃんと知ってる。だから私は、あなたと“協力して進む”のが好きだった」
ふたりは笑みを交わし、マグカップを持ち上げた。夕暮れの風が、彼女の髪をふわりと揺らした。
「俺……最近ようやくわかった気がするんだ。どんなに情熱を持ってても、ひとりじゃ辿り着けない場所があるって。俺がどんなに準備しても、思い通りにいかないこともある。だからこそ、“信じる誰かと一緒に進む”ことが、大事なんだって」
「……その言葉、聞けて嬉しい」
「昔、お前と一緒にお絵かきしたこと覚えてる?何気なく描いた絵が、予想以上にうまくできて、子どもみたいに喜んでたお前を、いまでも思い出す」
「うん、覚えてる。あのとき、私……“自分にもできるんだ”って、すごく救われた気がしたの」
「俺も。お前が笑ってくれるだけで、何でも乗り越えられる気がした。だから、あの感覚をもう一度取り戻したくて……こうして会いたいって思ったんだ」
美麗は、かばんから一枚のスケッチブックを取り出した。
「私ね、最近また絵を描き始めたの。仕事も忙しいし、何かに追われてばっかりだったけど、少しずつ、心を整える時間が欲しくなって」
「見せてくれる?」
「……ちょっとだけね」
ページをめくると、そこには何気ない日常のスケッチが並んでいた。スーパーの袋を抱える猫、ベンチで眠る老人、夕暮れの駅の影。どれもが、美麗の目に映る“何でもないけど大切な風景”だった。
「すごくいい絵だな。お前の優しさが、そのまま絵に現れてる」
「ありがとう。あなたにそう言ってもらえると、自信が持てる」
広志は、かばんから封筒を取り出した。
「……俺も、お前に読んでほしい言葉がある。手紙を書いてきたんだ」
美麗は驚いたように受け取ると、丁寧に封を開けた。
美麗へ
君と出会って、俺は初めて“誰かと一緒に何かを成し遂げる喜び”を知った。
君の柔らかな思考、まっすぐな視線に、何度も救われた。
焦ってばかりの俺を、静かに止めてくれた。
もし、もう一度一緒に歩めるなら、今度は“君のペース”もちゃんと感じていたい。
君の描く未来を、隣で見つめていたい。
広志
美麗は、手紙を胸に抱えたまま、涙をこらえるように微笑んだ。
「ねぇ広志……あなたと一緒に、また絵を描きたい。今度は言葉じゃなくて、“形にしていく”未来を」
「うん。たとえゆっくりでも、風のように、自然に進んでいこう」
ふたりは立ち上がり、小さな風に肩を寄せながら歩き始めた。
——季節の風。
それは、焦りや迷いを包み込みながら、ふたりを再び未来へと導く、やさしい再出発の合図だった。
(第一〇二章 完)