第一〇〇章「胸を焦がす想いの行方」
小平市・小平市立図書館。冬の午後、空は薄く曇り、ガラス窓の外に広がる静かな住宅街は、どこか時間が止まったように感じられた。館内には控えめな暖房が効いており、ページをめくる音と、遠くで司書が本を整える音が空気に溶けていた。
侑は、2階の閲覧スペースの一番奥の席にいた。コーヒー色のセーターの袖を少しまくり、手元のノートにゆっくりとペンを走らせる。目の前には哲学書が数冊積まれていて、彼の視線はその中の一冊からふと宙へと抜けていた。
彼は、他者を理解しようとする姿勢を持ち、共に成長するために努力を惜しまないタイプだ。だが一方で、時に無意識に“他人を不快にさせる”こともあった。まっすぐすぎる言葉、空気を読みきれない提案。それでも彼は、責任を持って行動することを信条にしてきた。
そして、そんな彼のことをずっとそばで見てきた日向子が、今日、この図書館に来ると知っていた。
「久しぶり」
そう声をかけたのは、いつもの穏やかな口調ではなく、どこか迷いの混じった声だった。
「……久しぶり」
侑は静かに立ち上がり、彼女の隣の椅子を引いてすすめた。
日向子は、グレーのニットにロングコート、手にはお気に入りの文庫本を抱えていた。図書館にふさわしいその佇まいの中に、彼女らしい“理性的な温かさ”が宿っていた。
「ここ、変わってないね。学生の頃、よく来たよね」
「うん。あの頃、何もかもが忙しくて、でもどこか楽しかった」
「今も、変わらず忙しい?」
「まぁね。責任ある立場になればなるほど、考えなきゃいけないことが増える。……でも、最近は“考えること”より、“感じること”の方が大事なんじゃないかって思い始めた」
日向子は、微笑みながら彼の顔を見つめた。
「あなたがそう言うの、珍しい」
「自分のペースで考えてばっかで、誰かの感情を置き去りにしてたことに、やっと気づいたんだ」
彼の言葉に、日向子は胸の奥にざわめきが走るのを感じた。自分の立場を尊重し、冷静に行動できる彼女であっても、過去の侑の言動に心を乱される瞬間は、少なからずあった。
「私も……似たようなこと、最近考えてた。“自分を見失わずに冷静でいる”ことは、大事だと思ってた。でも、本当に大事だったのは、“どうしてその感情が生まれたか”に目を向けることだったのかも」
ふたりは静かに視線を重ね、微笑を交わした。その間に流れるのは、かつてのぎこちなさではなく、今この瞬間を確かめ合うような柔らかな気配だった。
「日向子、今日は話したいことがあるんだ」
「うん、聞かせて?」
「この前、ふと“胸を焦がすような想い”が湧き上がってきてさ。唐突に、“お前に会いたい”って思った。論理でも、理由でもなく、ただ感情として」
日向子はゆっくりと頷いた。
「……私も、そうだった。静かな時間の中で、本を読んでても、音楽を聴いてても、気づいたらあなたのこと考えてた」
侑は、小さな紙封筒を取り出し、そっと彼女の前に差し出した。
「これ、読んでくれる?俺なりに考えて、書いた手紙なんだ。ちゃんと、今の俺の気持ちを言葉にしたくて」
日向子は丁寧に封を開け、便箋をそっと広げた。
日向子へ
君と出会って、自分という存在をちゃんと見つめ直すようになった。
他者とどう関わるかではなく、“君とどう向き合うか”をずっと考えてきた。
自分のペースでしか考えられなかった俺が、君の静けさと強さに救われた。
“ゆっくり考える”ことが、こんなにも心を通わせる手段だったとは知らなかった。
これからの時間を、君と共有したい。
過去も未来も、君の手のひらの中で一緒に包んでいけたら嬉しい。
侑より
手紙を読み終えた日向子の目に、静かに涙が浮かんでいた。
「……ありがとう。こんなに心があたたかくなったの、久しぶりかもしれない」
「俺は、やっとお前のそばに立てる気がしてる。ちゃんと向き合って、少しずつ前に進んでいきたい」
彼女は頷き、テーブルの上にそっと手を伸ばした。
「じゃあ、まずは……この本、読み終わるまで、隣にいてくれる?」
「もちろん。お前がページをめくる音、昔から好きだった」
窓の外には、冬の陽が静かに差し込み始めていた。
——胸を焦がす想いの行方。
それは、思慮深さと素直な感情が交差し、ようやく“心からの言葉”にたどり着いたふたりの、新たなはじまりの証だった。
(第一〇〇章 完)