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堕獣はそのまま、アンジェラを足からむさぼりはじめました。
ぼりぼり、ぐちゃり、と、聞くに堪えない音が響きます。
「やめろ。妹を血肉にしたとあっては、さしもの彼女にも拒まれるぞ」
脅された堕獣は慌ててアンジェラを口から吐き出しました。
べちゃり。
吐き出されたアンジェラには、すでに下半身がありませんでした。
食いちぎられた下腹部から、わずかに臓腑こぼれます。夥しい血液が地に広がっていきます。
それは鮮やかな赤色でした。
彼女が身につけていた赤いドレスと寸分違わず同じ色です。
遠くから見ると、彼女はとても下半身を失っているようには見えませんでした。
丈の長いドレスを纏い、優雅に横たわっているようでした。
口元に付着した血は紅となり、彼女の口元を生き生きと彩ります。
大きく見開かれたその目は、恐怖にも苦痛にも歪んでいません。
ただ姉に対するまっすぐな想いだけが残っています。
絶対にウェンディを救うのだという強い意志が、生命を失ってなお、力強く讃えられています。
とても死んでいるようには見えませんでした。
その気高さを、美しさをなにひとつ損なわないまま、アンジェラ様は死にました。
「大人しく諦めれば、見逃してやったものを」
ペテロは嘆息し、ウェンディの頬に付着したアンジェラ様の血をそっと拭いました。
「最後まで愚かな女だったな」
アンジェラ様の血は、ペテロの履く純白の手袋に、一点の染みを作りました。
ペテロはそれに息を吹きかけました。
すると染みは手袋から抽出され、真っ赤な花弁に変化しました。
風もないのに、花弁は舞い上がりました。
血の一滴に留まらず、アンジェラ様の骸は端から花弁へと変わっていきました。
ドレスもろとも、血のように鮮やかな赤色の花弁となって、空へ舞い上がって行きます。
美しく、そして悲惨な光景でした。
アンジェラ様は妖精の王に敗れ、妹が癒した堕獣に食い殺され、骨のひとつも残らず消されてしまいました。
……こんな。
こんな凌辱があるでしょうか。
いったいアンジェラ様がなにをしたというのでしょうか。
彼女は妖精の魔の手から姉を守ろうとしただけです。
それなのになぜこのような仕打ちをうけなければならないのでしょうか。
私は悔しくて胸が張り裂けそうでした。
主が死んだ悲しみよりも、主が本懐を遂げられなかった無念で、腸が煮えくりかえっていました。
けれど私は、木々の影に隠れたまま、身動きがとれませんでした。
主に助太刀することも、骸を守ることもできませんでした。
私はただ怯えていることしかできませんでした。
アンジェラ様は果敢に立ち向かいましたが、妖精の王は本当に恐ろしい存在でした。
いかにその姿を美しい人のものへ変えようとも、放たれる気配のおぞましさに変わりはありません。
私はなにもできませんでした。
主が蹂躙されていく姿をただ見ていることしかできませんでした。
思い出すと、今でも怒りで気が触れそうになります。
私は許せません。
妖精の王も、ただ震えていることしかできなかった自分自身も。
憎くて、仕方がありません。
「――――アンジェラ?」
アンジェラ様の骸の、最後の一片が空に舞ったとき、ウェンディは意識を取り戻しました。
棺桶のような荷車に横たわったまま、ウェンディは視線を空に舞う赤い花弁をぼんやりと眺めました。
「貴方の妹は、自分の居場所へ戻ったよ」
ペテロはウェンディに優しく微笑みかけます。
「そう……」
ウェンディはぼんやりしたまま、問いかけます。
「あの子、怒っていたでしょう?」
ペテロは答えませんでした。
ウェンディはかまわずに続けました。
「あの子、私が貴方のところへ行くこと、よくないことだと思っていたから。きっと去り際に、貴方にひどいことを言ったでしょう?――――ごめんなさいね」
「貴方が謝ることではない」
「許してあげて。あの子はあの子なりに、私の幸せを考えてくれていたのよ」
「……そうだろうか」
「そうよ。だってあの子、私のこと、大好きだもん」
ウェンディは子どもに戻ったような口調で言いました。
「わたしも、アンジェラのこと、大好き。怒りっぽいけど、本当はすごく優しいんだよ。それにすごく優秀で、自慢の妹なんだ」
「……そうか」
「うん。――――ねえ、あのお花、とってもきれいだね」
ウェンディは遠ざかっていく花弁に、手を伸ばしました。
「アンジェラにとってもよく似合いそう」
ペテロはウェンディの手を握り、視界を遮るように、彼女に覆いかぶさります。
「ペテロ?」
ウェンディは心配そうに訊ねます。
「どうしたの?どこか痛むの?」
「……いいや。なんでもない」
「嘘はダメ。――――『安寧に身を委ねなさい。回復魔法』」
封じられていた魔力を取り戻した彼女は、ぎこちなくも確かに、もとあった回復魔法を使うことができました。
「……あれ?」
しかしペテロの身体には、擦り傷のひとつ見当たらなかったようです。
「こんなに痛そうなのに……」
ウェンディは目蓋を降ろしました。
「あれ?また、眠くなってきちゃった……」
「目覚めたばかりで魔法を使ったからだ」
ペテロはウェンディの頬に口づけをしました。
「もう少し眠るといい」
「でも、貴方が心配だわ」
「どこも痛んでいない。平気だよ」
「それに私、まだあの花を見ていたいわ」
「次に目が覚めたときには、あんな花弁なんてきれいさっぱり忘れてしまうくらいの、一面の花畑が広がっているよ」
「素敵ね……でも……私はあの花を見ていたいわ……」
「もうほとんど見えないよ」
「見届けなくちゃいけない気がするの……最後の一片まで、私は……」
ウェンディは眠りに落ちました。
ペテロは嘆息し、空を見上げました。
花弁は、ちょうど最後の一片が、北へと流れていくところでした。
「――――忌々しい」
ペテロは呟くと、堕獣の背を軽く叩きました。
「急ごう。彼女が目を覚ます前に、深淵に入らなければ」
ウェンディを載せた荷車を引き、堕獣は歩み始めました。
ペテロはその後を追いましたが、ふと立ち止まって、振り返りました。
「ああ――――忘れていた」
ほんの瞬きの間に、ペテロは私の眼前に移動してきました。
「ひっ――――」
私が悲鳴をあげるのと同時に、ペテロは私の額を小突きました。
「さっさと逃げればよいものを。律儀な女だな」
頭が真っ白になりました。
記憶の最後に残るのは、忌々しい男の声だけです。
「喜べ。これでお前は、愚かで醜い主人から解放される」